北本地名誌

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Ⅱ 大字の沿革

12 北中丸

〔近世〕上中丸村 江戸期~明治8年の村名
中丸村が江戸時代の初期に上・下に分村してできた。はじめは幕府領であったが、元禄年間に旗本日下部氏の知行地となる。同11年(1698)一部が日下部氏の分家の知行地となり、日下部氏2氏の相給となる。検地は慶長17年(1611)と寛永16年(1639)。村高は「田園簿」で248石、うち田32石余・畑215石余。「元禄郷帳」では250石余。高札場は村の中央に一か所。化政期の家数55軒。用水は天水であった。鎮守は氷川社で、ほかに7つの小さな神社があった。寺院は氷川社別当の新義真言宗慈眼寺、同愛宕山遍照寺。明治4年埼玉県に所属、同8年下中丸村と合併し、中丸村となった。
下中丸村 江戸期~明治8年の村名
中丸村が江戸時代の初期に上・下に分村してできた。はじめは幕府領であったが、元禄年間旗本日下部・多門両氏の相給となる。検地は上中丸村に同じ。村高は「田園簿」で216石余、うち田37石余・畑179石余。「元禄郷帳」232石余。村の西北を中山道が通る。化政期の家数50軒。高札場は2か所あった。鎮守は氷川社で上中丸の氷川社を分祠。ほかに3つの小さな神社があった。寺院は新義真言宗瑠璃山安養院、境内に戦国期の岩槻大田氏の家臣小池長門守の碑がある。ほかに天台宗雲性寺があった。明治4年埼玉県に所属、同8年上中丸村と合併して中丸村となった。
〔近代〕中丸村 明治8年~12年の村名
明治8年上・下中丸村が合併して成立した。明治9年の戸数133・人口749、馬30。公立小学校は遍照寺跡を仮用し、生徒数は105人であった。江戸期以来の寺院の慈眼寺・遍照寺はともに明治7年廃寺となった。主な物産は、米・麦・甘藷・人参など。同12年北足立郡に所属して北中丸と改称した。これは同一行政管内に現大宮市大字南中丸(それまでは中丸村)とともに、2つの中丸村が含まれることになったので、北と南を冠して区別したものである。
北中丸村 明治12年~22年の北足立郡の村名
中丸村が、明治12、郡区町村編制法施行に伴い改称して成立した。明治22年、中丸村が誕生するに及んで、中丸村の大字となる。
北中丸 明治22年~現在の大字名
はじめ中丸村、昭和18年から北本宿村、同34年11月から北本町、同46年11月から北本市の現行大字となる。人口は明治22年828人、昭和45年3,332人となる。同50~53年一部が本宿1~8丁目、中丸1~5丁目の各一部となる。

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