北本地名誌

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Ⅱ 大字の沿革

8 深井

地名の由来は深井があったためという(地名誌)。 戦国期に上野(群馬県)国白井城主長尾景春の孫景孝が天正年間(1573~1592)に当地で出生し、その子が深井対馬守景吉と名乗り、当地に住したと伝える。江戸期の小名に堀の内があり、深井対馬守の屋敷跡という。
〔中世〕ふかい
室町期から見える地名。足立郡のうち。応仁2年(1468)3月5日の旦那在所注文案に、「河関田は左三郎二郎重代相伝」の武蔵国旦那知行分として、「一、ふかい一円」と見え熊野那智大社に当地の旦那職を売渡している(熊野那智大社文書)。
〔近世〕深井村 江戸期~明治22年の村名
足立郡鴻巣領のうち。古くは鴻巣郷深井荘に属したという。もと鴻巣のうちで、のち分村。旗本日下部2氏の相給。検地は寛永6年(1629)。 村高は田園簿で325石余、うち田37石余・畑288石余、「元禄郷帳」では上深井・下深井の2村に分記し、上深井174石余・下深井175石余で計349石余、「天保郷帳」も上・下に分記し、計351石余、「旧高旧領」では深井村1村で記し340石余。「新編武蔵」も1村で記載。村の規模は東西11町・南北15町。村内を中山道が通り、化政期の家数は48軒であった。高札場は村の東に1か所で鎮守は氷川社、上村の神社は第六天社、下村は稲荷社であった。新義真言宗殿林山金蔵寺寿命院は、もと持明院と号し文明年間(1469~1487)の創建と伝える。戦国期に深井氏が中興し、天正19年(1591)徳川家康より寺領10石の御朱印を与えられた。この頃から寿命院と呼ぶようになった。足立坂東三十三札所寺である。寺院はほかに新義真言宗歓喜山東円寺・同橋本寺があった。
明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数63、人口343、馬9頭であった。東円寺は明治2年、橋本寺も同9年以前に廃寺になっている。飛地は上谷村内に2か所、中曽根村(現鴻巣市)に1か所、ほかに1か所があった。主な物産に米・麦・岡穂。大豆・小豆・粟・ヒエ・ゴマ・甘藷などがあった。同12年北足立郡に所属、同22年中丸村の大字となる。
〔近代〕深井 明治22年~現在の大字名
はじめ中丸村、昭和18年から北本宿村、同34年11月から北本町、同46年11月から北本市の現行大字。人口は明治22年366、昭和45年1,142人。同49~52年に一部が東間1~8に組み入れられ、深井1~6丁目と地番が整理された。

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