北本地名誌
Ⅱ 大字の沿革
9 宮内
〔中世〕宮内村 戦国期に見える村名。足立郡鴻巣郷のうち。文献上にみえる地名宮内の初見は、永禄8年(1565)乙卯月吉日の河目資好判物で、下記のように大島大炊助は当村10貫5百文を宛行なわれている。其方抅宮内村以上十貫五百文相出候、於此上厳密に可被為走廻事肝要候、為後日一筆仍
如件、恐々謹言、
永禄八年乙卯月吉日 河目越前守資好
大島大炊助殿
ついで天正5年(1577)3月21日の太田助次郎判物では、鴻巣宮内百姓中に対し、当地の開発を命じ、新田開発については5年間を無税と定めた。
追而書なし
不作之所従当五年荒野二相定候間、何も精を入開発可有、無申迄候得共、近年之開に不
待合様ニ被致之儀肝要に候、仍状如件、
天正五年丁丑三月十一日 助次郎(花押)
鴻巣宮内百姓中
当村の領主大島氏は伊豆の土豪で小田原北条氏の家臣となり、のち岩付(岩槻)の太田氏に仕えたという。天正18年6月1日、豊臣秀吉の武将浅野長吉は岩付城を攻略するとともに、近在の郷村の退転を禁じ、当地周辺の土豪大島氏以下5人の者をもとの村々に帰住するように命じている。
以上
汝等五人之事、如前々在所へ令退住耕作以下可申付候、若兎角申者於在之ハ、此方へ可
申来候也、
六月一日 浅野弾正長吉(花押)
武州足立郡鴻巣郷
大島大炊助
大島大膳助
矢部新右衛門
矢部兵部
小川図書
以上五人遣之 (新編武蔵国風土記稿)
〔近世〕宮内村 江戸期~明治22年の村名
足立郡鴻巣領のうち。郷荘名は不詳である。はじめは幕府領であった。正保年間(1644~1648)から元禄年間(1688~1704)にかけて村内を上・下宮内村に分け、元禄11年上村は一部が旗本内藤氏の知行地となり、宝永元年(1704)には、残りの幕府領は旗本数原氏の知行地となった。下村は享保六年旗本小林氏が知行するところとなった。検地は寛永6年(1629)で元荒川辺の持添新田も同年。村高は、「田園簿」で398石、うち田147石余・畑251石余。「元禄郷帳」には上・下分村して記載して、上宮内村205石余、下宮内村は197石余であった。「天保郷帳」も同高で変わらず、「旧高旧領」では上・下合わせて1村として記載してある。村の規模は東西・南北ともに11町余。用水は元荒川の水を鴻巣宿の宮地堰より引いて使用した。高札場は3か所あった。化政期(1804~1830)の家数は_上村が30軒、下村は27軒であった。神社は大宮の氷川神社より勧請した氷川神社のほか2社、氷川社の別当は当山派修験大乗院で、ほかに寺院としては新義真言宗歓喜山常福寺があった。村の西方には十三塚があった。名主は内藤家分が大島氏であった。
明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数69、人口344、馬20。公立小学校は常福寺を仮用し、生徒数107。飛地は2か所あった。主な物産に米・岡穂・モチ米・大麦・小麦・裸麦・大豆・小豆・粟・ヒエ・ソバ・甘藷・実綿・空豆・大根などがあった。同12年北足立郡に所属、同22年中丸村の大字となる。
〔近代〕宮内 明治22年~現在の大字
はじめ中丸村、昭和18年から北本宿村、同34年11月から北本町、同46年11月から北本市の現行大字。人口は明治22年404、昭和45年2.567人。大正15年一部を常光村へ編入した。昭和49~53年一部が東間1~8丁目と北本1~4丁目に組み入れられ、新しく宮内1~3丁目ができた。