北本地名誌

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Ⅲ 自治体の沿革

1 石戸村

市町村合併史下巻(昭和37.埼玉県地方課)により、石戸村成立を紹介すると次の通りである。
「明治二十二年四月一日下石戸上、下石戸下、石戸宿、高尾、荒井の五村を合併してあらたに石戸村が設置された。関係諸村が北足立・新座郡長小泉寛則の内訓に基く上日出谷村、原馬室村両連合戸長からの五村合併に関する諮問に対し、明治二十一年八月十七日議員、惣代人十八名の連署をもって本案に同意する旨答申した。かくて吉田清英知事の上申を経て山県内務大臣から異議なく許可されて、この地方に著名な旧石戸領の領名を採って新村名とし、翌二十二年三月二十三日付新村施行に関する県令をもって新村の発足をみ、旧村名は大字名として存置された。
これら関係諸村中、下石戸上・下両村及び石戸宿村は上日出谷村連合戸長役場の所轄に、高尾荒井両村は原馬室連合の所轄にそれぞれ属していたが、各村とも主として農業を生業として生活を営み往古から風俗、習慣を同じくし、交通、経済、文化等の社会生活に共通の利害関係を有して合併に適当な状態にあったため、何らの故障もなく円滑に合併が実施されたものと思われる。
しかし、新村名の選定については相当な波乱があった模様で、殊に旧高尾村の住民が石戸村とすることに反対し、惣代人一同連署をもって小泉郡長に次のような上申書を提出しているのが見られる。その見解を見ると、高尾村は近隣各村に対する諮問についてみると戸数の多い村の名称又は物産等に関係のある名称をとっているにもかかわらず、新村名を石戸とすることは、この地に桐材及び桐箪笥等の物産を産出している実情を無視したもので、営業上はもとより、地価、反別に至るまで不利不便をまぬがれず、且つ又本村は新村中その区域が最大であることに鑑み、近隣各町村なみに高尾村とすることが最も妥当であるというにあった。これに対し、郡当局は合併区域中石戸宿、下石戸上、下石戸下の三村を合すれば大村となり、且つこの地方を石戸領と称したこともあるので、新村の名称は石戸とすることが至当であるという見解を示し、終始一貫して県案を押し切ったようである。

新町村命名ノ義ニ付上申
                          北足立郡高尾村
右惣代人等奉上申候、今般有力町村造成ニ付本村及荒井村石戸宿村下石戸上村、下石戸下村以
上五ヶ村ヲ合併シ石戸村卜命名スルノ可否曩ニ御諮詢相成候ニ付区域及命名ノ義ハ官ヨリ御達相
成候義卜相心得其儘答申仕其後他新町村ヲ顧ルニ何レモ合併町村中ニテ戸数人口ノ多キ町村名ヲ
以新町村名称トセラレタル如ク有之、然ルニ当新町村ニ限り大村タル本村ヲ閣キ小村ナル石戸村
ノ名称ヲ御採用相成候テハ他ノ大村ニ対シ本村ノ面目ヲ失スル道理ニ有之且又本村ノ如キハ往古
ヨリ高尾木地卜称シ桐箪笥長持等ノ制作品アリテ東京府下ニ直輸セル土地ニテ此隣町村ノ製造者
トイエトモ高尾村卜仮称シ輸出致来り候次第ニテ営業上ノ不便不利不■将又戸数人口地価反別ニ
至ル迄新町村区域最大ノ義ニ付他ノ新町村並方ノ通本村名ニ御採用相成度此段奉上申候也

   明治二十一年九月二十九日        右惣代人   新井秀五郎
                              金子広 𠮷
                              田島鐘三郎
北足立・新座郡長  小泉 寛則殿

明治22年合併時の人口は3,843人。その後の世帯・人口は大正9年744戸・ 4,279人、昭和15年760戸・4,500人。同18年中丸村と合併し北本宿村となり、各大字はそのまま存続した。


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