北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍

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Ⅲつわものの活躍

8 公方と管領の争い

公方と関東管領
上杉四家のなかでも、憲顕から出た山内上杉氏の勢力が最も強かった。その勢力強化を恐れた第二代関東公方・足利氏満、第三代・満兼は、犬懸上杉氏を登用した。また満兼は関東府の機構を改正して、奉行(ぶぎょう)を直接支配下におくようにするなど、関東管領(かんれい)の権力を弱める政策をとった。この結果、満兼と山内上杉氏、犬懸上杉氏と山内上杉氏の対立が深まっていった。
応永(おうえい)十六年(一四〇九)、第四代関東公方(くぼう)に足利持氏(もちうじ)が就任し、翌十七年には犬懸上杉氏の禅秀(ぜんしゅう)(氏憲(が関東管領職についた。同二十年四月には陸奥国(むつのくに)で伊達(だて)持宗の乱が起き、六月には甲斐(かい)凶徒が蜂起するなど、関東府管内で反乱が相次いだ。しかし不思議なことに、これらに対処したのは公方の持氏であり、関東管領の禅秀が動いた形跡はみられない。このころには、すでに持氏と禅秀の間に政治的な対立関係が生まれていたのであろう。
応永二十二年、持氏が禅秀の家人の所領を没収したため、禅秀はこれに抗議して関東管領を辞職した。その禅秀の後任に山内上杉氏の憲基(のりもと)が就任したため、禅秀と持氏・山内上杉氏の関係は決定的に悪化した。翌応永二十三年十月、禅秀は持氏の叔父(おじ)・満隆とむすんで、反持氏・山内上杉の兵をあげた(上杉禅秀の乱)。犬懸・山内の両上杉氏とも武蔵と関係が深かったため、武蔵武士も二手に分かれて戦いに参加した。すなわち、武蔵七党の丹党・児玉党などは犬懸(禅秀側)につき、豊島氏・江戸氏らの武州南一揆(かつての武蔵平一揆が再編成されたもの)や武州北白旗(きたしらはた)一揆は山内(持氏側)についた。幕府の援軍を得た持氏は、翌応永二十四年一月、武蔵世谷原の戦いで禅秀軍を破った。禅秀・満隆は鎌倉雪ノ下の坊で自刃した。この乱の結果、持氏と山内上杉氏の政治的な優位が決まった。
応永二十五年、関東管領・上杉憲基が死去し、まだ七歳の子憲実(のりざね)が管領職を継いだ。持氏は、これを公方の権力拡大の好機として、積極的な政策を打ち出した。まず第一に、上杉禅秀に味方した者たちばかりでなく、幕府に直属する関東扶持衆(ふちしゅう)など、持氏の反対勢力と思われる者たちの追討(ついとう)であった。次に、奉行を持氏の直属とし、政策の一部は関東管領を通さずに政策が進められるようにした。しかし、この急ぎすぎた行動は、関東扶持衆の件で幕府を刺激し、奉行の件では山内上杉との対立を深めた。

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