北本の神社

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Ⅰ 旧中丸地区神社

【氷川神社 旧村社

1.所 在 地
北本市大字宮内字堤552番地

2.祭 神
素盞嗚命
保食命 建御名方命 菊理姫命 倉稲魂命
面足命 菅原道真公 神功皇后 惶根命

3.沿革
鎮祭の時期は明らかではないが、『由緒調書』によれば、人皇12代景行天皇の御宇、日本武尊が東征の際、当地を武蔵・信濃平定の本営地と定めたことを記念し、その跡に大宮氷川の大神を勧請して当社を建立したと説く。宮内の地名はここに初まるともいわれ、近郷の鎮守として神威は遠近に及び、かつては境内六千有余坪、社有地一万余坪の広大な社領を有し、境内は古木鬱蒼と茂り荘厳を極めたようである。『新編武蔵風土記稿』には、本地は十一面観音、別当は当山派修験、小松原(鴻巣市)瀧本坊配下大乗院と見え、江戸後半頃のおおよその実情が知られる。文政十年(1827)には、その由緒の古さを認められ、神祗管領長上家より「武蔵國三の宮」の称号を贈られたことが、近年発見された同神社所蔵文書によって明らかにされる。このことは、「風土記稿」や「郡村誌」には記されておらず、当時はもとより最近にいたるまで、その事実が一般に知られていなかったことからすれば、大いに注目すべき事柄といえよう。
古来、日本諸国の名神大神は、その社格により国毎に一の宮、二の宮、あるいは四の宮などと呼ぶ習わしがあった。武蔵国では、大宮の氷川神社が一の宮であり、二の宮は児玉の金鑽神社であったことがよく知られている。三の宮以下については明らかにされていないが、ここに当社が、江戸期のことではあるが、武蔵国三の宮と称していたことは注目してよく、当社の歴史、さらには武蔵国の神社史を解明する上に興味深い問題を投げかけてくれる。この称号が古来からの伝統によるものなのか、あるいは江戸期における称号なのか、その判断はつけがたく、今後の課題としておきたい。一節に「時の大乗坊(別当大乗院のことであろう)が、厖大な寄進をしてその返礼に賜った」という話が残されていることを参考までに紹介しておく。その後、当社は様々な変遷を経たようである。明治3年には道路や山林として境内地の大半を官に返還させられ、度々の請願を経て、ようやく明治35年にいたって、その一部の払い下げを受けている。
明治6年には村社に列せられ、明治40年には神社合祀の令により、深井の氷川社、古市場の稲荷社、常光別所の白山社、花ノ木の稲荷社、他いくつかの無格社・末社を合祀することとなった。
明治43年には、神饌幣帛料供進神社の指定を受け、その翌年には、会計法適用神社の指定を受けている。
さらに大正3年には、社務所、神庫を改築し、翌4年には、拝殿の模様替え及び幣殿の新築を行ない、昭和52年、社務所を全面改築した。

4.祭事
春 祭 2月20日
例 祭 10月15日
秋 祭 11月22日
その他、年中恒例祭儀6回

5.景観・配置

拝 殿 流造 瓦葺 大正4年3月27日造立
幣 殿 破風造 瓦葺
外 宇 切妻造 瓦葺
本 殿 神明造 板葺 明治3年3月22日再興
神楽殿 入母屋造 瓦葺
神 庫 切妻造 瓦葺
一の鳥居 神明型 花崗岩製 額束銘「氷川神社大正七年一月 □日 宮内顧問 官従三位勲―等文学博士三島毅叢書歳八十有九」
二の鳥居 現在は倒してあり不明である。
灯 籠 小松石製 銘「昭和十五年十月建設」
手水舎 切妻造 瓦葺 銘「本正四年六月六日建立」
手水石 小松石製 銘「大正四年十一月十日大畦記念」
奉納碑 銘「道祖神 昭和四十七年四月十六日 寄進宮内氷川社評議員」
記念碑 旧蹟碑 写真参照
力 石 銘「元文五年(1740)奉納力石三十貫四月日」他四個不明



6.神木・神蹟類
神木跡あり、大杉2本 樹令300年程(現本殿裏)

7.摂 末 社
天神社 祭神 菅原道真公 神体木造渡唐天神像 社殿 切妻造 瓦葺
山王社 祭神 大山咋命 神体「山王神」名号石碑 社殿 切妻造 瓦葺
弁天社 祭神 弁財天

8.組織・運営
総代は各大字毎で4名選出される。
氏子は300戸。

9.奉 納 物
のぼり 銘「救厄無今古 明治十三年二月 氏子中」
    銘「除妖有徳威 樵山小室拝書」

10.信仰・習俗・その他
伝承
毎月15日、25日に火災が起きるので、神楽殿の後の藪にほうり出しておいた天神様を、元のように祭り直したら、不思議と火災がなくなったという。

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