北本の神社

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Ⅱ 旧石戸地区神社

【石戸神社】

1.所 在 地
北本市大字石戸宿字堀之内1464番地

2.祭 神
菊理姫命
伊井那岐尊・伊井那美尊
神体は木造の十一面観音坐像 寄木造 玉眼 彩色 江戸期の作 像高約30cm

3.沿革

鎮祭の年月は不詳であるが、昭和15年2月高松富士太郎、高松英一両氏が重罫己2600年記念として奉納した神社標識の石柱側面には「鎌倉暁将石戸左衛門尉館跡旧武蔵国足立郡石戸領石戸宿内鎮座 宮司小古瀬武廣」とある。
拝殿内の、高松堅次氏が昭和29年甲午11月吉日に奉納した額中には、「石戸の地名と神社の由来」と題して、次のように述べてある。
「当所は石戸の地名発生の村にして鎌倉の頃、近衛天皇康治元年正月安達藤九郎盛長公武蔵国少掾に任官せしより藤九郎盛長の領有となり当地一円我石戸の荘と称し藤九郎が荘園たり領主は荘司石戸左衛門尉を置き之れを守らしめたり当村は往時石戸氏の居館にして広く世の識者の認むる所とす埼玉県史ハ其の第三巻に石戸氏ハ治承五年間二月下野国登々呂木沢に於て志田の義広が鎌倉に逆きし時当村より範頼公討伐軍に参加其の後壇の浦より九州方面へ転戦武功阿里と雖も終焉の地を青史は伝へす当所ハ外濠及び内濠を構え中央に館逃として方六十間位平坦地有り八幡・浅間・八坂の各社はそれぞれ要地に鎮座ありしが、大正六年十月世情に従イ当社に合祠今日に至る。石戸の名ハ鎌倉時代より幾星霜領主の変遷に遭ひしも徳川の末期に至る迄八百年間能く石戸領の名を以て伝へたり、本村ハ去る昭和七年及び全九年四月時の埼玉県史編纂顧問柴田常恵先生及び主任稲村坦元先生井に小川先生等の一行来石両度調査の結果石戸氏の居館と認定県史三巻に確定の上石戸左衛門尉及び其の館述として収録紹介せり。洵に当然の事と須」とある。鎮座の年月は不詳であるが、かなり古くに遡ることは許されよう。
当社は、古くは白山神社と呼んでいたが、昭和29年5月に現社名に改称した。この間の事情については先にあげた「石戸の地名と神社の由来」の奉納額の左半分の部分「祭神伊井那岐尊伊井那美尊石戸神社」の解説文に詳しい。全文をのせると
「爾来明治廿二年四月町村制施行の際石戸宿村荒井村高尾村下石戸上村下石戸下村元石戸領二十村ノ内五ヵ村合併の議起り各字よリー名宛議員を選出協議の上合併する事に決定せり、然るに村名の相談に至っては議論百出三日間熟議の末石戸村の名称に一決せし事旧記に見えたり其の後昭和十六年二月十一日紀元の佳節を卜して石戸村中丸村と合併北本宿村誕生するに及び石戸の名ハ永久に消えなければならない運命となりました。石戸の名発生地区民ハ深く比の事を歎き石戸の地名を永く子孫に伝えんと欲して宮司小古瀬氏に謀り小林幾太郎、高松新作、小林球治両三名により昭和廿八年十一月氏子総会召集相談の末全員賛成となり昭和廿九年二月神社本庁へ申請の所昭和廿九年五月四日付第五百二十号を以て神社本庁統理鷹司信輔殿より新任総代の小林武治・高松亀之助・高松治世各氏の代に認承書が下附されました據って由来を記し伝へ事を諮り不肖事務担当の関係辞する能はず拙文不顧再拝謹而応 昭和廿九年甲午十一月吉日 高松堅次謹書①」

4.祭事
例 祭 9月25日

5.景観・配置

  • 拝 殿
  • 寄棟造 瓦葺
  • 幣 殿
  • 切妻造 瓦葺
  • 本 殿
  • 流造 板葺
  • 鳥 居
  • 四脚型 木造 額束名「天満宮 東□□甫」
  • 手水舎
  • 切妻造 瓦葺
  • 手水石
  • 石造 銘「明治七甲戌年六月吉日 第百十一番 願主高松藤助」
  • 手水石
  • 石造 銘「昭和二年三月吉辰 願主□□高松熊五郎 当七十七才」
  • 灯 籠
  • 石造 銘「昭和九甲戌稔四月十五日 伊勢太々講」
  • 力石
  • 3個

6.神木・神蹟類
 

7.摂 末 社
大正6年10月 八幡・浅間・八坂の三社を合祀した。詳しいことは3の沿革の項を参照されたい。

8.組織・運営
現在の宮司は、高柳五郎氏(川田谷の人)であるが、かっては小古瀬氏であった。氏子はおよそ50戸である。

9.奉 納 物
  • 絵 馬
  • 銘「奉納 明治十五年(1882)壬午十一月吉祥日 当所高松新五郎」69.5X90cm
  • 奉納額
  • 銘「戦勝祈願 奉奏伊勢太々神楽記念 堀之内伊勢太々講 昭和十年二月六日」76.5×151.3cm
  • 奉納額
  • 銘「神徳無窮」 78×40.5cm
  • 獅子頭収納箱
  • 銘「安政五年(1858)九月吉祥日 御獅子箱」ふたの内側に、次のような図・銘文が載っている。

10.信仰・習俗・その他
 

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