北本の神社
本文
Ⅱ 旧石戸地区神社
【氷川神社 旧村社】
- 1.所 在 地
- 北本市大字下石戸上字本村173番地
- 2.祭 神
- 素盞嗚尊
軻遇突智命・稲倉魂命・大物主命 - 3.沿革
- 『新編武蔵風土記稿』には「上下石戸村の鎮守なり、村内修験楊門院の持」とある。
県立文書館蔵の『神社登録台帳』によれば「明治六年四月村社に列セラルその他不詳、大正六年二月六日(注 実地調査のよれば二十八日が正しい)
全字北原無格社愛宕社、全須賀社企村大字下石戸下字二ツ家無各社稲荷社二社八雲社琴平社ノ六社ヲ本社へ合祀ス」と見える。
- 4.祭事
- 春祈祷
- 4月21日
- ふせぎ
- 5月15日
- 例 祭
- 9月12日
- 5.景観・配置
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- 本 殿
- 流造 板葺
- 外 宇
- 入母屋造 トタン葺
- 幣 殿
- 切妻造 板葺
- 拝 殿
- 入母屋造 トタン葺
- ―の鳥居
- 四脚型 木造
- 二の鳥居
- 稲荷型 木造 額東銘「奉糸内 北本町大字下石戸上 森田咲子 昭和参拾四年九月一日 宮司 小古瀬武広 棟梁 関根仁作 □□関根忠夫」
- 手水石
- 石造 銘「下石戸村宝永八辛卯年(1711)所願成就奉納御神前弁祈所四月吉日 伊藤次□」
- 灯 籠
- 石造 銘「正徳二壬辰天(1712) 奉納御宝前十二月吉日
- 石 碑
- 銘「奉納 昭和五年三月花崗岩敷石拾五枚‐伊藤喜蔵」
- 6.神木・神蹟類
- 昔は、大人5人でかかえられないほどの、この地方隋―の大杉が神木として崇められていたが、落雷のため枯死したので、6~7年ほど前に売却されてしまった。樹齢は1000年位を数えると言われていた。
- 7.摂 末 社
- 8.組織・運営
- 昭和初期の宮司は、小古瀬武広氏であり、現在は吉田浪次氏である。
総代は、原・上手・下久保台原の三地区より選出される。 - 9.奉 納 物
- 奉納額
- 11面 銘「奉納 下石戸伊勢太々講・太々徒「神楽」奉納年月日 明治二十三・二十九・四十三年 大正二・六・九・十四・十五年 昭和五・二十九年及び不明一。
- 奉納額
- 銘「武運長久五穀豊穣祈願 官幣大社氷川神社 太々御神楽奉上記念 昭和十六年」
- 絵 馬
- 銘「奉納御宝前 延享三丙寅年(1746)」33X44.5cm
- 絵 馬
- 銘「奉納御宝前J正□□暦九月四日」40×57.5cm
- 10.信仰・習俗・その他
- 例 祭
- 古くから屋台ばやしが奉納されていたが、近年では婦人会のおどりが奉納される。
- ふせぎ
- 世話人が集まり、宮司が祈祷する。
- 雨乞い
- 太平洋戦争後はすたれてしまったが、戦前は、雨乞いがさかんに行なわれていた。日照りが長く続くと、世話人がつれ立って、群馬県板倉町の雷電様に払暁に到着するようにこの地を出発した。かの地に着くと雷電神社の宮司に水を祈祷してもらい、拝受すると、すぐさま氷川神社へ帰還の途についた。
氷川神社では、境内の池(今はだいぶ埋ってしまっている)の水をたらいに吸み取り、下枝をはらいおとし、末の方に枝をつけた竹を用意して待機している。
さて、雷電神社への使いが、神水を持ち還ると、これを先ほど用意しておいたたらいにあける。そして、たらいの中に竹の葉を入れて引き出し、神前で振るのである。このとき同時に鉦や太鼓を打ちならし「雨、降れよかし」と祈るのであった。このときの祈りの言葉の中には「南無阿弥陀仏」と唱えられたと伝えられている。
ふつうは、一夏に一度の雨乞いであつたが、日照りが強烈で長い場合には、一度とは限らなかった。
農家にとっては、生死を左右するほどの意味を持っていたので、下石戸上と下の200戸ほどの全農家は必ずこの行事に参加するならいであった。 - お百度詣
- 今から50年ほど前までは行なわれていたと伝えている。
- 出征兵士戦勝祈願・出陣報告
- 下石戸の総・鎮守ゆえ、出征の際には必ず行なわれた。