石戸蒲桜
桜は、日本を代表する花です。遠く
万葉の時代からおだやかな日本の風土ともあい、日本人にしたしまれてきてたくさんの歌や詩にもよまれてきまし た。北本にも、桜の木はたくさんあり、市の木に指定されています。なかでも、石戸の
蒲桜は有名で、北本といえばすぐ蒲桜が思い出されるほど、よく知られています。それは、まれに見るほど古くて大きな木であり、また、この木には
悲運な死をとげた
蒲冠者 源範頼の言いつたえがあります。
範頼の言いつたえは、この本でも「源範頼と
亀御前」(二
頁参照)としてのせておきました。蒲桜は
江戸時代の本にもしょうかいされていますので、文人や、画人の活やくがはなやかだった江戸時代の終わりころには、石戸の蒲桜として、広くその名をとどろかせていたものと思われます。
この
桜は、
関東地方でもっとも古い桜の一つで、日本
五大桜の一つに数えられ、植物学上からもきちょうな桜とされていました。大正十一年十月十二日には、他の四本の桜とともに国の
天然記念物に指定されました。かつては四本の大きなみきに分かれ、根もとのまわりは、十一メートルもありました。みきの間には、今でも五〇〇~六〇〇年も前にたてられた
板石塔婆をだきかかえるように取りこんでいます。
文政年間(一八一八~三〇)、
江戸時代の作家
滝沢馬琴があらわした『
玄同放言』 には、石戸の地をおとずれた
渡辺崋山がさし絵をえがき、
蒲桜の
伝説 をのせています。そこには、平安時代の終わりころ、石戸に
蒲冠者 源範頼が流され、その庭に範頼が植えたのがこの桜で、蒲冠者にちなんで、「蒲桜」 と名づけられたとあります。もう一つは範頼が植えたのではなく、範頼のはかのしるしとしてのちの人によって植えられたというものです。いずれも、地元の人たちの言いつたえとしてしるされています。このほか、範頼が
落人として石戸の地に来たとき、ついてきたつえから
芽が出たので、「蒲桜」とよばれるようになったとか、範頼がこの近くを通り、馬をつないで桜の木にかぶとをかけたことから「蒲桜」とよばれるようになったなど、この木をめぐりさまざまな言いつたえがあります。これは石戸の人たちが、むかしから
郷土 のほこりとして
蒲桜にあつい思いをよせ、深いあいじょうを注いできたからだと思われます。
げんざい、開花するみきは
老木の
株分けで、いわば二代目の蒲桜であり、エドヒガンの
一種です。
注
(1)万葉の時代………古代の歌集「万葉集」の歌がつくられた時代、五世紀後半から八世紀ごろまでのこと。
(2)文人や、画人………
短歌や
俳句、物語などを作ったり、絵をかいたりする人。
(3)五大桜………大正十一年十月に、埼玉県北本市の蒲桜とともに福島県の三春滝桜、 山梨県武川の山高神代桜、静岡県狩宿の下馬桜、岐阜県の根尾淡墨桜の五本 の桜の木が、国の天然記念物に指定されたことによる。
(4)滝沢馬琴(一七六七~一八四八)………江戸時代の小説家。『玄同放言』は読書のときに気づいたことをまとめ、つづったもの。代表作に『南総里見八犬伝』がある。
(5)渡辺華山(一七九三~一八四一)……… 三河国(今の愛知県の東部)に生まれた江戸時代すえの画家であり、思想家である。幼名は定静であるが、はじめ華山と号し、のち華山とあらためる。
(6)落人………たたかいに負け、人目をさけてにげていく人。