四 くらしを伝える話
ここでは、北本で暮らした人々の生活の中から、農業のしかたや 年中行事、祭り、芸能などについての、特徴的な話を取り上げました。配列は、正月から始めて、おおむね季節を追ってならべ、次に、季節に関わらない話をおさめました。
北本市に生きた人々の生活や民俗は、北本をとりまく自然環境と歴史や、社会条件などによって性格づけられています。まず、市の大半をしめる台地と、それを開析する谷、市の東西を流れる赤堀川・荒川流域の低地という地理的条件があります。明治八年ころは、耕地の八六・六パーセントが畑地で、水田は一三・四パーセントに過ぎません。それに台地の畑は、揚水ポンプのないころは、水田としての利用はできませんでした。したがって農業は畑作が中心でした。
「もちを食べない正月」は、畑作優越地域である北本市の正月のようすを伝える話です。サトイモは湿気のある畑に向くので、荒川沿岸の低湿地に作りました。亜熱帯原産のサトイモの類は東インド諸島から日本まで広く分布していますが、関東地方がその北限とされています。そのせいか、北本にも芋正月があり、十五夜、十日夜 などにはサトイモを供えたり食べたりする民俗が見られます。「はつうま」は、初午に行われる屋敷神の祭りを紹介しました。個人の屋敷神は稲荷が圧倒的に多く、初午を祭日としています。また、稲荷は個人でまつるもののほか、地区や同族でまつっているものもあります。江戸時代のある時期に、江戸文化の一環として伝わってきたものでしょうが、それ以前からあった春先の農事始めの行事が元になっています。
「おかいこ」は、かつて市内でも盛んに行われていた養蚕のようすを伝えています。
「田植えをしない米作り」「灰を買う話」は、北本市域の稲作の特色を伝える話です。現在のように水田が増えたのは、昭和初期の河川改修で河川敷が水田になったり、戦後、畑に深井戸を掘ってポンプで揚水する陸田化が行なわれてからです。それまでの水田稲作は、大半が台地の谷部にたまった涌水を利用した湿田農耕でした。湿田では、種籾を灰と下肥でくるんでまくので、灰が大切です。農家では、ヘエゴヤ(灰小屋)を外便所のわきに作ってためておきましたが、さらに岩槻の灰問屋から買ったり、水田地帯の農家との間で
薪と交換したりする特殊な交易を行って手に入れていました。
「浅間様とオタキアゲ」「お盆様」は、麦作地帯における七月一日や盆行事の意味を伝えています。年中行事は一年を周期として行なわれるものですが、細かく見ると正月と盆、春秋の恵比寿講など半年ごとに二分され対応している行事もあります。大晦日の大祓いと六月三十日の水無月祓いもそうです。日本人は穢を忌む民族で、半年ごとに身に付いた穢を取り去って、健康に暮らしたいと考えていました。
七月一日の行事にもこの思想をみることができます。禊は普通水によって穢を祓うのですが、七月一日の行事には、火による禊の思想が読み取れます。
また、時期時期に収穫された新穀には特別な力がこもっていて、それを神様に供え、食べることによって、新穀の持つ力を体内に取り込み、病魔に対抗できると考えていました。夏に収穫される作物の代表は麦です。そして、麦は埼玉の畑作地帯では、特に大事な穀物でした。それで、七月一日をはじめ七夕、盆など夏の行事には、うどんや饅頭などとりたての新小麦を材料とした食べ物をこしらえて神様に供えてからいただきます。粉にして手間ひまかけてこしらえるので、ごちそうだったのです。麦作中心の農業から、ふだんの食事も、麦が中心となっていました。
オロチ退治の話に登場する人物は、俵藤太秀郷のほかに坂上田村麻呂や弘法大師という伝えもあります。こういう点から、この話は、史実ではなくて伝説だったということがわかります。もとは単に偉い神様が、という伝承だったものが、俵藤太秀郷や坂上田村麻呂・弘法大師にことよせて語り継がれたということがわかります。真夏に雪が降るなどということは考えられませんが、正月を繰り返して改まるという意識が読み取れます。
「キュウリを作らない家」は禁忌作物の問題です。大字荒井はかつては荒井村という一つの村であり、村人は須賀神社(天王様)の氏子としてキュウリを作りませんでした。もらって食べるのも、 お祭りの日が過ぎてからでなくてはならず、それも天王様の御紋と同じにならぬよう、まず縦に切ってから横に切って食べました。このように他の村とは違った特殊なことを村人皆で守ることが、村人の仲間意識を強めることになり、村の団結をはかる働きにもなっていました。
「とうかんや」は、本来は秋の収穫祭の行事ですが、麦作地帯の北本では麦の播き上げ祝の色彩が強くあらわれています。
「天神社の獅子舞」は、北本を代表するすぐれた民俗芸能である石戸宿の獅子舞を紹介しました。
「雑木林と泉」は、かつて武蔵野の象徴と言われた雑木林が、都市化の影響で急速に減少しつつある現状を、大宮台地でわずかに残り、動植物や私たちにとっても命の水である泉の枯渇の問題とからめて紹介しました。
「アカドロとクロマサ」「切り株はだれのもの」は、台地部の畑作の特色を伝えています。台地中央部の高尾・荒井あたりの畑はアカドロ (赤泥)と呼ばれる火山灰の積もった関東ローム層の畑で、土が軽く麦しか作れず、野菜や大豆作りには不向きでした。しかし、サツマイモは味のよいのがとれました。
広い山林は、薪作りやクズカキ(落ち葉かき)の場所として重要でした。クズは枯れ枝とともに燃料として使い、またサッマイモの苗床に入れたり、堆肥にして麦作の肥料にしました。一月は山カキの最盛期で忙しいので、昭和三十年代の半ばまで正月は二月にしていました。山を開墾して畑にする山起こしも盛んに行なわれ、薪の代金は山主のもの、切り株は山を起こした小作人のものとなるなどの慣習もありました。
市の東西の北中丸・宮内・石戸宿あたりは黒ずんだ重いクロマサと呼ばれる土で、大麦や野菜・大豆を作付けするのに適していました。オカボ(陸稲)も作りました。
「ドロツケ」は、市内西部地区で行なわれていた客土による土地改良法です。冬の農閑期に荒川の河川敷からヤドロロと呼ぶ肥沃な土を馬で運んで畑に入れるもので、桶川市から鴻巣市にかけての荒川沿岸で盛んに行われた農法です。
北本市は、埼玉県の中央部に位置しているためか、県の西部へ連なる民俗と、県東部へ連なる民俗の双方が見られます。西部系の民俗としては、六月一日の早朝、麦ぬかを燃やして当たるオタキアゲ(お焚き上げ)の行事があります。東松山市にある岩殿山の縁起として伝わる話で、入間郡・比企郡を中心とした荒川西岸地方で行われている民俗であり、北本は東限といってよいでしょう。
東部系の民俗としては、エビスコウ(恵比寿講)に生きたフナを供えるカケブナの行事や、初午のスミツカリなどがあります。初午の日の供物として欠くことの出来ないスミツカリと呼ぶ大根の湯なますは、栃木から群馬、埼玉の利根川流域に分布しているものです。盆にお迎えした祖先をちょうちんに移して、自分の田畑に案内するノマワリの行事も県東部でよく見られるものです。