雑木林遺跡 遺跡の立地と環境
第2章 遺跡の立地と環境
第2節 遺跡の歴史的環境
雑木林遺跡では、今回初めて発掘調査が行われた。ここでは、遺跡をとりまく歴史的環境について述ベてみたい。本調査区の南側には、文明年間(1469~1487)に創建されたと伝えられる寿命院が所在する。寿命院は新義真言宗の寺院で、かっては持明院といった。戦国時代の在地武士である深井氏によって中興され、境内には一族である深井景孝や深井景吉(対馬守)など代々の領主の墓が立ち並んでいる。天正19 (1591)年には徳川家康から寺領十石が寄進され、それ以降歴代の将軍から寺領を安堵する朱印状を受けている。また、境内には鎌倉時代中期の建長3(1251)年と建治2(1276)年に建てられた板碑があり、共に市指定文化財になっている。深井氏が居住したとされる場所については、『新編武蔵風土記稿(以下『風土記稿』という)』巻百四十八の上深井村・下深井村の条に「小名 堀ノ内 東の方を云、古へ深井対馬守が居住せし所なり、一に対馬屋敷といふ」とあるが、「堀ノ内」及び「対馬屋敷」については寿命院周辺のことと推測されているものの、その正確な場所は不明であった。明治9年の地引図で館の痕跡がないか確認したが、今回検出された堀跡による地割と一致する区画は見つからず、堀による区画施設は比較的早い時期に廃絶したものと考えられる。また、寿命院北側の雑木林(本調査区内)には「深井」の地名の由来となった「深井の大井戸」伝説があり、事前の現地踏査において直径10m~数十mの大きな落ち込みが地表面観察からも看取され、「まいまいず井戸」と予想された。これについては、性格を明らかにするための詳細な発掘調査が期待されていたが、今回の調査の結果、井戸ではなく大型の竪穴状遺構であることが明らかになった。
さて、地元の開発領主であった深井対馬守については、『風土記稿』巻百四十八に「上州白井の城主長尾左衛門尉景春の男小四郎景忠の子に六郎次郎景孝と云るものあり、天正年中当村にて出生し在名を以て深井と称せり、其子を対馬守景吉と云、太田源五郎氏資に属し、上総三舟山の役に従ひしとき、太田氏資討死せしかば本意なく当初へかへり、民間に跡をかくし多くの田畑を開き、夫より世々ここに土着せり」と伝え、戦国期が終わりを告げると帰農して開発領主になったことを伝えている。なお、『風土記稿』によると、長尾氏の系図では景春の子は景英でその子を景誠といい、景忠・景孝の名は見えないことから、景忠は景英の兄弟であったがたまたま系図から漏れたものかと推測し、なお検証が必要であると締めくくっている。
ところで、戦国時代における周辺の村々では、俗に「鴻巣七騎」と呼ばれる在地武士が活躍していたといわれている。これらの在地武士たちは岩付太田氏の支配下にあり、それぞれが北本周辺に所領を持っていた。ここでいう鴻巣とは、北本市の東側一帯と桶川市の東部、そして鴻巣市の南東部を含む「鴻巣郷」と呼ばれた範囲を指す。在地武士たちの居住していた場所は諸説あり人数も7人に限られていないが、以下の人々の名前が伝わっているので推定される居住地とともに記す。
①大島大炊助・大善亮(北本市宮内)②深井対馬守景吉(北本市深井)
③小池長門守(鴻巣市鴻巣)④加藤修理亮(北本市中丸)⑤矢部某(鴻巣市下谷)
⑥立川石見守(鴻巣市上谷)⑦河野和泉守(鴻巣市常光)⑧本木某(桶川市加納)
鴻巣七騎のうち、北本に関係する在地武士は少なくとも3人おり、宮内・古市場周辺は大島氏が、深井周辺は深井氏が、中丸周辺は加藤氏がそれぞれ治めていた。彼らは岩付太田氏や小田原北条氏に仕えた武士である一方、地域において開発を推し進める開発領主であった。永禄2(1559)年、岩付城主・太田資正が大島大炊助に対して発給した「太田資正判物」には「当郷打明之事 其方深井致談合 可為開候 郷中百姓等 無菟角可為入籠成 永禄弐年 己未 三月二十四日 大島大炊助殿」とあり、深井氏と相談して「当郷」の開発を行うよう命じている。ここでいう「当郷」とは宮内周辺のことと考えられ、市域が太田氏の支配地であったことが理解できる。
また、本遺跡が所在する市域東部には、岩槻街道が南北に貫通している。岩槻街道とは、戦国時代において岩付城(現さいたま市岩槻区)を起点として放射状に伸びる道路で、そのうちの1本が市域の東部を縦断していた。ルートは現在のさいたま市岩槻区から蓮田・伊奈・桶川を通って、市内の朝日から深井に抜けて鴻巣市へと至り、旧中山道と合流する。この街道沿いには、在地武士の館跡や神社仏閣など多くの歴史遺産が点在しており、往時において重要な道であったことが伺える。岩槻街道沿いに点在する市内の館跡については、対馬屋敷のほかに中丸に所在する大久保館跡、古市場・宮内に所在する上手遺跡(上手館跡)などが挙げられる。中丸の大久保館跡については、加藤氏の館跡と考えられている。現地には今も水堀の跡が残されており、この堀を掘った土を岩付城の築城のために運んでいったとの伝承が残されている。また、中丸8丁目に所在する寺院・安養院には小池長門守・加藤修理亮の墓が所在し、寺院の北側と西側にはかつて数十mにわたって堀跡と思われる窪みが残っていたといわれ、ここにも加藤氏に関係する館があったと推測されている。
古市場に所在する上手館跡は、江戸時代後期に描かれた地誌『武蔵誌』に「古市場古塁 古市場村に在」とだけ記されていたが、長らく詳細は不明であった。昭和63年、地元の郷土史家と市史編さん室により、古市場1丁目に土塁が残されていることが明らかにされ、ここが在地武士である大島氏の居館であった可能性が指摘された。
発掘調査は平成8~11年度に実施している。遺跡からは縄文時代中期終末から後期、さらに戦国期を中心とする稠密な遺構・遺物が検出されている。中世の館跡は北東端で出丸状を呈し、元荒川低地に突出している。寿能城跡(さいたま市)・赤山陣屋跡(川口市)等でも同様のあり方が看取され、大宮台地東縁における該期の館の共通項として興味深い。
調査は館跡の北西部の面積約6,000㎡を対象として行われた。戦国期の遺構は、掘立柱建物跡群・方形竪穴建物跡7軒・地下式坑5基・地下室6基・井戸跡6基・堀跡1条・土坑、ピット多数が検出された。これらは調査区の南東部に集中し、調査区西側に遺存する土塁と主軸をほぼ同じくしている。また、遺構群の北東部には方形竪穴建物群、北西部には溝状を呈する長方形土坑群、やや空白域を介して南部に掘立柱建物群及び井戸跡が分布し、空白域には地下式坑が円周配列をもって位置する。このうち、掘立柱建物跡についてはL字に配置される主殿(5間X7間)及び会所を中心とする様相を示す。また、方形竪穴建物跡はプランが長方形を呈し、長軸上の壁際に対となるピットを穿つもので、床面にはいずれも火所が認められた。地下式坑は1基を除いて複室構造で、天井部はすべてが崩落していた。
遺構の密度に比して遺物は少なかったが、景徳鎮系染付皿・龍泉窯系青磁碗等の舶載陶磁器、瀬戸美濃窯系の擂鉢・天目茶碗・丸皿、在地系の瓦質菊花紋香炉・捏ね鉢、かわらけ等の陶磁器類のほか、茶臼・碁石・火打金・銭等の生活用具が出土している。
上手館跡と同時期に機能した城館跡としては、石戸宿6丁目の石戸城跡を挙げることができる。
古墳時代については、市域東部における調査事例は少ない。周辺の調査事例としては、本調査区から北へ250m程いったところに所在するNo.98遺跡の調査がある(第2図)。No.98遺跡では、平成25年度に個人住宅建設に伴う発掘調査が行われ、古墳時代後期のものと考えられる竪穴住居跡1軒と、北側に所在する「深井の地蔵堂」の参道の一部と思われる堀跡が検出されている。また、令和元年度から令和2年度にかけて、深井7丁目に所在する№97遺跡において店舗新設工事に伴う発掘調査が行われ、古墳時代後期の竪穴住居跡5軒などが調査されており、市域東部の古墳時代を知るための資料の蓄積が進んでいる。
第2図 北本市周辺の地形と遺跡分布

1.雑木林遺跡 2.No.97遺跡 3.No.98遺跡 4.No.99遺跡 5.No.100遺跡
6.No.101遺跡 7.上手遺跡 8.如意寺遺跡
参考文献
畦地稔生 1994「北本の地形」『北本市史』第1巻 通史編I 北本市教育委員会
井上恵一 1994「後北条氏の武蔵進出と岩付領」『北本市史』第1巻 通史編I 北本市教育委員会
「北本周辺の中世村落」『北本市史』第1巻 通史編Ⅰ 北本市教育委員会
吉川國男 1990「城館跡・金石資料・仏像」『北本市史』第3巻下 古代中世資料編 北本市教育委員会
「赤堀川流域の遺跡」『北本市史』第3巻下 古代中世資料編 北本市教育委員会