北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

建武三年・延元元年(一三三六)四月
武者所の結番が定められ、足立遠宣が四番を勤める。

119 武者所結番定書 [建武記(1)]
    定
     武者所(2)結番事
一番 子午新田越後守(3)
義顕
新田大蔵大輔
貞政
 熱田摂津守
昌能
長井因幡守
貞泰
 南部甲斐守
時長
大友式部大夫
直世
 長井掃部助
大江貞匡
長沼判官(4)
藤原秀行
 小山五郎左衛門尉
藤原政秀
楠木帯刀
橘正景
 三浦弥三郎
平長泰
二番 丑羊新田左馬権頭
貞義
宇都宮右馬権頭
泰藤
 小笠原周防権頭
頼清
仁科左近太夫
盛宗
 髙梨左近大夫
義繁
讃岐権守
親藤
 三浦安芸二郎左衛門尉
平時続
小早川民部常丞
平頼平
 三浦孫兵衛尉
平氏明
長江八郎左衛門尉
平政秀

(時イ)

 三尾寺十郎左衛門尉
平時勝
三番 寅申新田兵部少輔
行儀
長井前治部少輔
頼秀
 千葉上総介
胤重
狩野介
貞長
 伯耆大夫判官(5)
義高
土岐三川権守
国行
 豊後権守
光顕
狩野遠江権守
明光
 滝瀬下野権守
宗光
和泉民部丞
藤原行持
 町野加賀三郎
三善信栄

(周防イ)

四番 卯酉長井大膳権大夫
広秀
長井因幡左近大夫将監
高広
 富部大舎人頭
信連
足立安芸前司(6)
遠宣
 町野民部大夫
信顕
島津修理亮
貞佐
 小串下総権守
秀信
梶原尾張権守
景直
 山田蔵人
源重光
広沢安芸弾正左衛門尉
藤原高実
 荘四郎左衛門尉
藤原宗家
五番 辰戌新田式部太夫
義治
河内太夫判官
正成
 隼人正
光貞
駿河権守
時綱
 三川守
成藤
中條因幡左近将監
貞茂
 沼浜左衛門蔵人
藤原広誉
橘正遠
 高田六郎左衛門尉
源知方
布志部二郎
源光清
 熊谷二郎兵衛尉
平直宗
六番 巳亥武田大膳権太夫
信貞
伯耆守(7)
長年
 河内左近大夫
知行
宇佐美摂津前司
貞祐
 武藤備中権守
資時
大見能登守
家致
 金持大和権守
広栄
山田肥後権守
俊資
 春日部滝口左衛門尉(8)
紀重行
本間孫四郎左衛門尉
源忠秀
右、番守次第、一夜日無懈怠(9)可令勤仕之状如件
      延元々年(10)四月日
[読み下し〕
119 略
〔注〕 
(1)けんむき 東京都千代田区北の丸公園三ー二、内閣分庫蔵。『建武年間記(けんむねんかんき)』ともいう。成立年代は不詳であるが、南北朝時代の初期といわれている。建武政権が出した諸法令や政治・訴訟・軍事機構の交名表などを中心にして編さんされたもので、建武政権を知るうえでの根本史料である。
(2)むしゃどころ 後醍醐天皇が京都を警備させる目的で建武元年五月以前に設置した機関名
(3)新田義貞の長男 この他に新田氏関係では、一番に新田貞政、二番に新田貞義、三番に新田行義、五番に脇屋義治の名がみえる。
(4)楠木正成の一族と思われるが、系譜的なものは不明である。この他に楠木一族として、一番に橘正景、五番に楠木正成、橘正遠の名がみえる。
(5)名和長年の子の名和義高
(6)武蔵武士の足立氏であり、『足立系図』(東大史料編纂所影写本)によれば、足立氏の嫡流にあたっている。
     (足立氏略系図)
 
(7)名和長年
(8)紀姓出身の、春日部郷(埼玉県春日部市)を領した武蔵武士
(9)けたい なまけ怠ること
(10)建武三年二月二十九日に「延元」と改元した。
〔解 説〕
この史料は、建武元年五月以前に設置されていた武者所の職員を、延元元年(建武三年)四月に改変したときの一覧表である。第四番の職員として足立遠宣の名がみえる。
この結番表によれば、武者所は六番からなり、一番から五番までは各一一人、六番は一〇人の合計六五人であり、新田一族が五人、楠木一族が三人、名和一族が二人、その他は旧幕府出身の奉行人という如く、そのほとんどが後醍醐天皇側のものかそれに近いものたちを中心として構成されていた。
当時、後醍醐天皇と足利氏との関係は、全面対決の状態となり、足利氏が九州に逃れていた時であり、京都はまがりなりにも後醍醐天皇の支配下となっていた。したがって後醍醐天皇は、足利氏対策の一つとして、京都の治安維持などの目的で、その職責を担う武者所の職員の改変を行ったのであろう。
ただし武者所の機能はそれだけとは思われず、第四番に見える長井広秀・富部信連、第五番の二階堂成藤(なりふじ)などは、いずれも室町幕府のもとで所領裁判を担当した引付方(ひきつけかた)の頭人(長官)あるいは奉行人として活動しており、これ以外でもその姓からして奉行人と思われるもの(長井氏 - 四人、二階堂氏 - 三人、町野氏 - 二人など)が多くみられることから、鎌倉親王府に置かれた「関東廂番(かんとうひさしばん)」の如く、裁判機能をもかねそなえた機関であったと推測される

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