北本の動植物誌 本編 北本市の動植物相概説

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北本市の動植物相概説
牧林功
I 北本の動植物相の発達史
およそ12万年前,関東平野ー带は古東京湾と呼ばれる海であった.この時代は海水面がもっとも上昇した時期で下末吉海進と呼ばれる.その後,最終氷期であるウルム氷期を迎え気温は次第に低下していく.この氷河性の海面変動の影響を受けながら,古東京湾は周縁山地の土砂により埋め立てられ,次第に離水域を拡大し陸化していく.やがて海水面から姿をあらわし,ここに関東平野が誕生する.約10万年前のことである.平野が誕生すると当然のことながら河川は長く伸びて流れる.当時は荒川,利根川,渡良瀬川は熊谷あたりで合流し1本になって流下した.源流や上流で谷を刻み,土砂を下流域に堆積させる.平野全域の至るところに運ばれてきた土砂による自然堤防の高まりができ,その後背地は低いままの湿地が形成される.
およそ8万年から7万年前の市域は下末吉ローム上部層を堆積する陸地になっていた.荒川・利根川の合流が大扇状地を形成し,大扇状地の前面には自然堤防地帯や三角州,潟湖がつくられる.野田,春日部,川口を連ねた線から松戸付近にかけては沼沢地や潟湖が連続する状態だったらしい.
6万年前,ウルム氷期は絶頂に達し,急激な海面低下となった.このため河川の強力な下刻作用を促した.この時代,渡良瀬川は流路をかえ思川と合流し,大宮台地の東側に深く中川を刻み大宮台地と下総台地とを切り離した.台地の西側は荒川・利根川の合流が谷を刻み入間台地,東松山台地や関東山地東縁の丘陵と大宮台地を境した.このためひと続きであった関東平野から大宮台地が浮き上がった.
独立した大宮台地上に富士山,浅間山,遠くは鹿児島県の始良火山からの火山灰が降下した.平均気温は現在よりも6℃でから9℃も低く,市域は現在の日光戦場ヶ原や尾瀬ケ原の気温に匹敵した.このため東京付近でオオシラビソ,トウヒ,カラマツ等の亜高山性の植物が生育していた.これは江古田泥炭層から発見されたため江古田古植物群といわれる.おそらく市域にもこの江古田古植物群と同様な群落が形成されていたであろう.この針葉樹林内や湿地をナウマンゾウが徘徊していた[2].この種は寄居町用土,深谷市折之ロ,滑川町福田から化石が産出しているので,おそらく市域にも出現したと推察できる.自然堤防や微高地を除いてほぼ一様な平坦地であった市域は,6万年から5万年前に加須低地を中心とする関東造盆地運動の强い影響を受ける.それは大宮台地が加須低地に向ってじょじょに傾きながら低下していく現象である.このため大宮台地と加須低地との境界は不明瞭になった.ウルム氷期の極寒期,大宮台地には周囲の日光山塊,三国山脈,関東山地や秩父山地から河川の氾濫により漂着したり,風により撒布されたり,あるいは鳥糞の不咀しゃく物として運ばれたり,哺乳類や鳥類の体に付着したりして,植物の種子がたどり着き,それが芽を出し,生長して森林を形成していった.コナラ属やカバノキ属は白亜紀から出現したものであるし,クマシデ属,ハンノキ厲は古第三紀から,ブナ属,クリ属やトウヒ,ツガ,コメツガなどの針葉樹は第三紀中新世から出現している[4].おそらくこれらは周辺山地に生育していて大宮台地が陸化するや否や,この新天地に侵入し,芽生え,森林を形成していったものと思われる.
哺乳動物では北から先にあげたナウマンゾウのほかに,ヘラジカ,ヒグマなども南下し,朝鲜半島から陸続きであった現在の朝鮮海峡,対馬海峡を通ってオオツノジカ,ムカシジカ,モウコウマ,アナグマ,タヌキなどの黄土動物群がやってきた.ナウマンゾウ,オオツノジカ,ヒグマは野尻湖から,ナウマンゾウ,厶カシジカは葛生から,またモウコウマは栃木県内から,それぞれ発掘されている[2].それらの産出地は市域とかけ離れていると思われるだろうが,大型哺乳動物の行動範囲などから考えて,市域にも出現した可能性は大いにある.従って現在生息しているホンドタヌキはこの時代から定着したものと思われる.
こういう大型動物たちは,古富士火山,浅間山,赤城山,男体山,那須火山などの爆発やそれによる降灰に右往左往したことであろうか.
1万2000年前,最終氷期が終ると気温が温暖化し,再び海水面が上昇をはじめる.荒川や中川の流路に沿って海が迫ってくる.かつての河川の流路は海面下に沈む・このためこれらの流路は荒川埋没谷,中川埋没谷と呼ばれる.このときの海面上昇は縄文海進と呼ばれ,奥東京湾と呼ばれる海が北上してくる(図1).それのみでなく,今まで湖だった日本海に暖流が流れ込み,日本列島の日本海側に雪を多く降らせるようになった.冬季,太平洋側が晴天続きで乾燥し,日本海側が雪に埋もれて湿潤になる日本列島の気候分化はこの時代からはじまる.

図1.縄文海進期の海陸の状態

近隣では大宮市寿能泥炭層遣跡,川口市源長寺造跡が発掘され,大宮市深作沼,富士見市東大久保では花粉分析もなされている[6, 7, 8,10,11,12],その結果から北本市の古植物相の復元を試みたい.
台地上はスギを中心とするモミ,トウヒ,マツ,カラマツ,ツガ,コメツガ,コウヤマキなどの針葉樹と,シラカンバ,クマシデ,ハシバミ,トネリコ,クリ,ブナ,厶クノキ,エノキ,ニレ,ケヤキ,エゴノキ,シラキ,クワ,各種のカエデなどの落葉広葉樹が混じり合った複雑な針広混交林が成立していた.その中に僅かではあるがアカガシ,アラカシ,シラカシ,スダジイ,モチノキ,グミなどの照葉樹林もあった.多くの書物ではこの時期,カシやシイが九州南部以南のみに生育していたように記されているが,決してそのようなことはなかった.また注目すべきことはヒコリの存在で,今では北米大陸のみに生育して日本から完全に消滅したものだが,当時は大宮台地にも生育していた.ちなみにヒコリ材は弾力性に富みスキー用材として有名をはせたものである.またメタセコイアも生き残っていたかもしれない.
このような今では想像もできない林がある一方で草原もひろがっていた.イネ科,カヤツリグサ科を中心としたが,ヨモギやヒゴタイも多く,他にヨモギ以外のキク亜科,タンポボ亜科,アカザ科,ナデシコ科,セリ科,ワレモコウなどが混じると共に,ヒカゲノカズラ,ゼンマイ,ワラビなどのシダ植物も生育していた.
川辺や沼畔にはハンノキの大群落が形成される.それに混じるように谷筋にはクルミ,サワグルミ,ヤナギの仲間が生育した.また沼沢地にはミズゴケが生育し,今日の高層湿原のような景観があった.そこにミクリが生え,初夏の池澹にはコウホネも美しい花を開いた.ミクリは高尾や北袋に現在でも生育しているが,環境庁が危急種に指定した植物である.コウホネもミクリ同様,石戸宿に現在微かに生育している.共にこの時代から生育していたものである.両種ともに起源の古い植物で特段の注意をして絶滅せぬように保存に心掛けたい.
これらの生育する水面の上をコヤマトンボ,サラサヤンマ,ハグロトンボなどが現在と同じように飛んでいた.前種は塩原から,後2種は長崎県大屋から化石が出土していて,ウル厶氷期以前からの生息がわかっている.また水中にはツブゲンゴロウ,マメゲンゴロウなどが泳いでいた.水際の湿地にはゴミムシ,ナガマルガタゴミムシ,マルガタゴミムシ,ヒメホソナガゴミムシ,タンゴヒラタゴミムシが地表を這いずりまわっていた.これらの種は温暖化によって北上した種であり,岩手県花泉町から出土している.当然,北本にも生息していたであろう.おそらくセスジガムシも生息していた.しかし,その一方で温暖化により衰退していくものもある.ナウマンゾウ,オオツノジカ,ヘラジカ,ヒグマなど.必ずしも温暖化のせいばかりではないが,滅びたり,あるいは北へ退却する.それと入れ替わるようにイノシシ,シ力が現れる.この両種は骨が遺跡から出土する.
その後,縄文時代早期と考えられる時代に,花粉の乏しい時期がある.大宮市深作沼でいえば,粗砂と緑灰色粘土の地層なのだが,出現する花粉がきわめて少ない[11,12].おそらくしきりに火山灰が降り続けた時期で,多くの芽生えや背丈の低い植物は降灰に埋没したり,覆灰により枯死したりしたと考えられる.それでも僅かながらの緑はあったようで,マツ,スギなどの針葉樹,クマシデ,ハシバミ,コナラ,エノキ,ニレ,ケヤキなどの落葉広葉樹,アカガシなどの照葉樹が生き延び,疎林や単独木として存在していた.また川辺や湿地にはハンノキやサワグルミも残っていた.草本も僅かながら存在したようでサナエタデ,アカザ科,キク亜科,ヨモギ属,タンポポ亜科,イネ科,カヤツリグサ科の花粉やシダ植物の胞子も微量ながら検出されている[11,12].おそらく植物の少ない半砂漠のような荒涼とした景観をしていたことと思われる.
火山灰の降下がやわらぐと一斉に緑が回復してくる.しかし栄養分に乏しい土壌であるため,高等植物の群落形成はむづかしかったようで,シダ植物が先駆した.この時期に堆積した地層からは単条型の胞子が非常に多く [11,12],おそらくシダ植物の大群落が形成されていた.そしてその主役はワラビではなかったかと考える.ワラビがススキやヨモギなどをまじえて草原を形成し,水辺にはミズワラビやヤマドリゼンマイが群落を形成した.ヤマドリゼンマイは現在,尾瀬ケ原などで大群落を形成していることがあるが,おそらくその光景が北本のこの時代にもあったであろう.もう少し乾いたところにはクサソテツやオシダも生育していたかも知れない.
シダの大群落の時代ではあるが、降灰が止んで暫くすると他の植物も一斉に息を吹きかえしてくる。水辺のハンノキ林やヨシ,マコモなどの群落,それらの水際にはミズゴケ,ミツガシワやオモダカも登場する.奇妙なのはミズワラビとミズゴケ,ミツガシワの取り合せである.ミズワラビは現在,日本から東南アジアに広く分布するもので,熱帯などの暖かい水辺の植物であるのに対し,ミズゴケ,ミツガシワは寒冷な気候下の水辺の代表的な植物である.またオモダカとしたものにはウリカワ(花粉での両種の認別は困難である)も混じっていたかも知れない.これらは原始的な植物で,雌しべは1個の胚珠をもつのだが,そのかわり雌しべの数が多く球状に集合している.このオモダカは中国,朝鮮半島から日本にかけて分布するもので,日華要素の一員である.すなわち,この時代には熱带要素,極地要素,日華要素が同所的に鉢合せをしたような,不可解なほど複雑で多様性に富んだ水辺の植物相であった.
台地上にはコナラやハシバミを主とした林の中にシラカンバ,クリ,ブナ,エノキ,ケヤキ,クロウメモドキが混じり,照葉樹のアカガシやモチノキ,イヌツゲ,タラヨウも登場する.草原はススキ,ヨモギを主とするが,その中にサナエタデ,アカザ科,アブラナ科,セリ科,キク亜科,タンポポ亜科,カヤツリグサ科がまじり,スベリヒユまでが登場する.この時代はマツ,スギなどの針葉樹の復活がおそく衰退したままだったが,それ以外の植物は勢いづいて賑やかになっていた.通史ではこの時代「冷涼な気候が和らぎモミ属,トウヒ属,ブナ属,ツガ属が姿を消し,ケヤキ属,コナラ亜属がふえた」としているが,ケヤキ属,コナラ属はふえたのだが,姿を消したとされるものも完全には没姿していない.特にツガ属はかなり最近まで生育ていたことがわかっている[8].
縄文時代前期から後期にかけては,地球的な規模で温暖な時代でヒプシサマールといわれる.しかし縄文前期(6〜5千年前)の大宮台地は照葉樹林の要素であるアラカシ,アカガシなどのアカガシ亜属が登場したとはいえ,冷温帯要素であるブナ属(ブナ,イヌブナ)やカバノキ科(ダケカンバ,シラカンバ)などがまざったミズナラ,コナラ,クヌギなどを主体とする落葉広葉樹林で,冷温帯要素や暖温带要素が入り混じった林相であった.全体としてはかなり北方的な景観であり,局所的な開析谷による崩壊地には原始的で衰亡途上のフサザクラが見られ,谷筋にはオニグルミがかなり繁茂し,それに混じってトチノキやヤナギ類,例えばバッコヤナギやカワヤナギが生育していたのであろう.
流れが開かれた低地に入ると,そこは湿地あるいは沼沢状の土地になっていてヨシやマコモなどのイネ科のなかにカヤツリグサ科やガマ科が混じった湿地草原を形成し,そこにミクリも引続き優占して生育していた.また池や沼にはヒシ植物が繁茂していた.現在見られるヒシ,メビシ,オニビシなどはこの縄文前期から引続き生育している植物とみなしてよい.
台地上のより乾燥した場所はススキを主体とするイネ科草原があった.そこにヨモギ属,ヒゴタイ属といったキク亜科やキンポウゲ科のアキカラマツのようなカラマツソウ属,セリ科などもまじっていた.セリ科の花粉は種の特定がなされていないが,花粉分析にかかるような多量の花粉が故出されるものとしてはシシウドが考えられる.湿地にはセリが繁茂していたかも知れない.
昆虫類ではクリ,クヌギ,コナラなどの葉を成虫が食べ,根を幼虫が食べるヒメコガネやサクラコガネ,スジコガネ,カナブン,アオカナブンなどのコガネムシ科が知られているが,アオカナブンは現在のものより大型であることが指摘されている[13].また獣糞にはマグソコガネも飛来していたし,湿地にはキベリゴモクムシも徘徊していたであろう.これらは大宮市寿能泥炭層から出土している[13].
気候がより温暖になって,海水面の上昇が最高に達すると,汀線は隣りの桶川市川田谷あたりまで及んだ.そのことは谷津貝塚の存在が証明する.しかし,北本市までは到達していない.開析谷の珪藻分析によると淡水性のものばかりで,縄文海進の影響を全く受けなかった[6].
放射性炭素の測定で5120±40年前から3320土100年前までのおよそ2000年間の珪藻分析の結果では,より古い時代(シルト層)には沼沢湿地性のピンヌラリャギッバ(Pinnularia gibba )が卓越し,中頃(泥炭層下仕)には湖沼性のアウラコセイラアンビグア(Aulacoseira ambigua)が卓越し,より卞っては(泥炭薦上食)沼沢湿地性のナビクラエルギネンシス(Navicula elginensis)が優越する.このことは台地西部に複雑に切れ込む開析谷が,ところにより浅い深いの差はあったにせよ沼沢湿地的環境を継続させてきたことを物語る.局所的な起伏をもった樹枝状支谷は縄文海進期に荒川・利根川本流からの砂礫の堆積による自然堤防の形成によって谷口が閉ざされ,あるいは加須低地方向へ傾斜して沈降する造盆地運動が台地西縁を上昇させて谷口を閉ざしたりして,盆状の開析谷に台地周縁から流水が集まるような沼沢湿地的な堆積環境ができあがったことと一致する.
気温はさらに温暖化する.それに年間降水量も次第にふえてくる.
近隣の花粉分析の結果から類推すると,北本市域は縄文前期に引続きミズナラ,クヌギ,コナラ,カシワなどを主体とする圧倒的な落葉広葉樹林と,イネ科草原とが入り乱れて市域を覆っていた.現在生育していないミズナラがあったとする根拠は,縄文前期から後期にかけてブナの量があまり変化していないにもかかわらず,縄文後期にはコナラ属が半減することで,この半減した本体がミズナラであると考える.従って,ミズナラは縄文前期から引続き存在していて,縄文後期に衰退していったものであろう.縄文中期の落葉広葉樹林にはケヤキ,エノキ,ムクノキ,クリ,アカシデやイヌシデなどのクマシデ属,ツノハシバミ,イロハカエデやウリカエデ,タ二ウツギ,ニガキ,ツタウルシ,エゴノキ,ウコギやタラノキ,ウドなどのウコギ科なども混入しており,また冷涼気候下に適したシラカンバ,シナノキ,ブナ,キハダ,ハリギリなども生育し,ヒコリもまだ残存していた.
またこれらの落葉樹林と共に常緑のアラカシ,シラカシ,アカガシ,スダジイなどを主体とする照葉樹林もかなりの面積を占めるようになった.ヤマモモなども生育し,ヒサカキも林床には生育するようになった. それにスギ,アカマツを主にイヌガヤ,モミ,ツガ,コメツガ,トウヒ,ヒノキ,サワラなどの針葉樹を加えた現在より種の多様性に富んだ森林が形成されていた.
森林が形成されないような表土の浅いところやより乾燥したところ,あるいは山火事などによって森林が失われたところにはススキ草原がひろがっていた.この草原にはカヤツリグサ科やヨモギなどもかなり高率で混じり,アキカラマツ,シシウド,ワレモコウ,アリノトウグサ,オミナエシなどにキク亜科,タンポポ亜科も占綴していた.
渓畔や多湿地の周縁にはハンノキ林を主体にトチノキ,ヤナギ類,オニグルミ,サワグルミ,ハルニレ,トネリコなどが生育していた.湿地にはウリカワやオモダカ,ミツガシワの美しい湿性草原がひろがり,ミクリもそこに混じっていた.またアヤメ科の存在した証拠があるのだが,種はカキツバタだろうか,ノハナショウブだろうか,いずれにしても花期には湿原を美しく彩った.一方,ヨシやマコモ,ヌマガヤなどのイネ科やヤチスゲ,ワタスゲなどのカヤツリクサ科,ガマ,コガマなどののガマ科も生育していた.水面にはヒシ,メビシ,オニビシなどのヒシ属に混じってコウホネが浮んでいた.
荒川・利根川の合流した川辺にはサクラソウも生息していたかも知れない.上尾市江川流域,浦和市秋ケ瀬の自生地や,かつての大宮市馬宮での存在などから十分考えられることである.主題からはずれるが、サクラソウは利根川上流域から運ばれたもので,荒川上流域からではない.これが縄文時代中期の植物相の復元図である.冷涼な気候下と温暖な気候下の混合した多様性に富んだものであった.
降水量が増加するにともない,上流から多量の土砂が押し流され,河床は次第に埋積され高まってくる.氷河期に高標高地では凍結,融解が繰り返された結果,多量の砂礫が形成された.それらが降雨により多量に流下してくる.一方,加須低地は引き続く造盆地運動で相対的に低くなりその当然の帰結として,荒川,利根川の加須低地への流入となる.約4000年前,縄文中期末のことである.ちなみにこの時代の荒川,利根川の流路が現在の元荒川,古利根川として残っている.市域西側のかっての荒川・利根川の流路には和田吉野川と市野川だけが流れこみ,水量がぐっと少なくなったに違いない.そのとき陸生小動物は渡河が可能になったであろう.
北本市の縄文後晩期の植物相を類推すると,クヌギ,コナラ林が衰退しはじめ,代わってシラカシ,アラカシ林が増加し,ツバキも登場する.縄文最晩期には落葉広葉樹林より照葉樹林が僅かにひろがった状態になる.しかしブナ,シラカンバ,オニグルミは相変わらず多く,暖・冷両温带の混合する複雑な林相は相変わらずの状態であった.従ってトチノキの種子が多量に見つかっている[6]のは気候に合わなかったわけでなく,植物はこの程度の気候変動では一度に枯死するわけではなく,緩やかに変化していくものと把えなくてはならない.特に寒冷気候下の植物は温暖な気候下では高標高地へ登りあげるか,高緯度の地に北上するが,そこで生産される種子は常に河川の氾濫などで下流の温暖地に供給されるので,結果として変遷は緩慢になるとおもわれる.ちなみに,関東平野の河川はほとんど南下して流れることを指摘しておきたい.落葉広葉樹林に随伴するようにケヤキ,エノキ,ムクノキ,イヌシデ,アカシデ,クマシデも引続き生育していた.
また縄文後期は湿潤気候でスギ,ヒノキ,サワラがふえるが,晩期は乾燥してこれらの針葉樹が少なくなり,イチイは完全に消滅する.代わってアカマツがふえ林を形成するようになる.このアカマツ林やクヌギーコナラ林を通じてヤマツツジが目立つようになるのも縄文晩期である.昆虫ではハナムグリ類,スジコガネ,ヒメコガネ,カナブンの食植性コガネムシや獣糞にはセンチコガネやマグソコガネが飛来した.また地表にはカタツムリやミミズを追ってアオオサムシも登場する[13].
湿地周辺にはハンノキがふえカワヤナギやイヌコリヤナギなどが中期に引続き生育していて,林床にはアオゴミムシやヒラタゴミムシ類が這いまっていた.
晩期の気候の乾燥化は全体として森林を少なくし草原を拡大させたが,それだけでなくヒトによる森林の伐採も草原の拡大に輪をかけたのかも知れない.この広がった草原はススキなどのイネ科が相対的に少なくなりカヤツリグサ科,ヨモギ属,匕ゴダイ履,あるいは他のキク亜科が増加する.
沼沢地や湿地ではヨシを主体に,ガマ,コガマ,ヒメガマ,ミクリが生育し,ヒシ,メビシ,オニビシも相変わらず生育していたが,この抽水植物群落に新しくハスが登場する.ハスは中国南部より熱帯アジアにかけ広く分布する種だが,起源の古いもので既に白亜紀から日本で記録されている.千葉県検見川の3000年前の泥炭層から出土した種子が発芽した大賀バスは良く知られるところで,行田市ではその見事な生育地がある.珍種ホンシュウオオイチモンジシマゲンゴロウ,イネネクイハムシ,コガシラミズムシ,ベニイトトンボも,この時期にはもう土着していたであろう.
このように温暖期にハスまでも登場したわけだが,古くからの冷温带要素のヒシ属にまじってコウホネも生き続けており,これは今日まで生き伸びている.コウホネもまたハスと同じくスイレン科で多数の雄しべが輪状に並び,側面で合着する原始的な花のつくりであるばかりでなく,導管が未発達で原始的な状態にある.現在でも石戸宿に遺存しているが大切にしたい.
しかし何といっても衝撃的な事件はウリの種子の出土(岩槻市真福寺遺跡)である[10].この事実はヒ卜が狩猟採集経済から農耕段階に入ったことを証明する以外の何ものでもない.縄文晩期はおよそ上記のような状態であったが,それから弥生,古墳,歴史時代をへて今日に至っている.そのあいだにモミ,ツガ,コメツガ,トウヒ,トチノキ,ハルニレ,サワグルミ,オニグルミ,ブナ,シラカンパなどの北方系の樹木が消えていった.昆虫ではコクワガタ,ドウガネブイブイ,タマムシ,アカガネサルハムシなどがこの時代に登場していたことが知られている[13].
北本市では八重塚遣跡,諏訪山南遺跡,提灯木遺跡など旧石器時代からヒトが生活していたことが知られている.石器時代のヒトは狩猟採集により生計をたてていて,イノシシ,シカ,キジ,マガモの痕跡がその生活跡から知られている.しかし縄文時代中期ごろより焼畑農耕がはじまったと考えたい.焼畑はご承知のように一部の山林を焼き払い,その跡を耕やして作物を栽培する.この焼畑耕作のはじまった頃は,ヒブシサマールを迎え,いままで優勢を誇っていた冷温帯的な落葉広葉樹林から暖温帯的な照葉樹林に変わっていこうとする時期になっていた.
小山修三[9]による関東地方の推定人口密度により,北本市域の人口の推移を計算してみると,縄文早期は5.9人,前期は26.5人,中期は59.0人,後期は31.9人,晩期は4.8人,弥生時代は61.2人という数字になる.おそらくこれに近い人口の推移があったものであろう.稚拙な焼畑耕作の開始により60人ほどに人口がふくれ上がったとみてよい.この焼畑耕作の結果生じた二次林性の落葉広葉樹林と,気候の温暖化で退行する落葉広葉樹林が隣り合せに共存したことで,落葉広葉樹林内に生活しそこに適応しきった生物が長距離移動せずに,二次林へ住みかえたとするのが守山弘の指摘である[11].

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