北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

建武二年(一三三五)二月十四日
右馬允政季は、鎌倉極楽寺新宮社に寄進された足立郡箕田郷内今富西方村百貫文の地を、同寺僧の道戒上人に打ち渡す。

117 右馬允政季打渡状 〔極楽寺文書(1)〕
御寄進于極楽寺新宮社(2)武蔵国足立郡箕田郷(3)内岩佐七郎知行地事、任被仰下之旨、金井八郎相共莅彼知行分、所奉打渡百貫文地今富西方村於当寺僧道戒上人御房之状如件
 建武二年二月十四日 右馬允政季(花押)
〔読み下し〕
117 極楽寺新宮社に御寄進す、武蔵国足立郡箕田郷内岩佐七郎知行地の事、仰せ下さるの旨に任せ、金井八郎と相共に彼の知行分に莅(のぞ)み、百貫文の地今富西方村を当寺僧道戒上人御房に打ち渡し奉(たてまつ)るところの状件の如し
〔注〕
(1)神奈川県鎌倉市極楽寺 極楽寺蔵
(2)真言律宗の寺で、奈良西大寺の末寺にあたる。もともと深沢の里(鎌倉市内)あるいは藤沢(藤沢市)にあった寺を、正元元年(一二五九)北条重時が現在の地に移したのが始まりといわれている。
(3)鴻巣市箕田のあたり
〔解 説〕
この史料は、右馬允政季が金井八郎と相共に極楽寺新宮社に寄進された足立郡箕田郷内今富西方村を、同寺僧道戒上人御房に打ち渡したものである。
当時、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子成良親王を代表とし、これを足利直義が補佐する政治形態をもつ錄倉親王府が置かれていたが、右馬允政季らはその鎌倉親王府からの命令をうけて、道戒上人に箕田郷内の地を打ち渡したものと思われる。打ち渡しにあたった右馬允政季と金井八郎は「使節(しせつ)」と呼ばれているものであるが、鎌倉親王府の関係者と推測されるほかは不明である。
但し、この文書は、文書の文言や署名などが、他の同内容の文書などにくらべて、特異なものと思われる。
なお、箕田郷については、史料131を参照。

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