北本市史 資料編 近世
第2章 村の生活
第3節 産業と金融
9 秤
140 弘化四年(一八四七)八月 本宿村惣百姓所持秤取調差出帳(本宿 岡野正家文書七〇)
(表紙)
「
弘化四年未八月廿八日
惣 百 姓 持 秤 取 調 差 出 帳
武蔵国足立郡本宿村
」
弍拾六貫目払
一秤 壱挺 勇 次 郎
弍十六貫目秤
一二
一秤 壱挺 友 五 郎
弐貫目秤
小
一皿秤 壱挺 市 五 郎
一綿秤 壱挺 留 五 郎
壱貫弐百目秤
一綿秤 壱挺 藤 五 郎
一綿秤 壱挺 和 吉
一綿秤 壱挺 久 蔵
合七挺
右は今般為御用秤御改の儀先達て被仰渡候ニ付、村方小前取調差出申候、以上
三上豊前守知行所
武蔵国足立郡本宿村
名主代
八月廿八日
秤御改
御用場
守随彦太郎様
御役所
解説 徳川幕府は承応四年(一六五五)に京都の神善四郎と江戸の守随彦太郎の両人をそれぞれ秤座に指定した。京秤座は西三三国、江戸秤座は東三三国の秤の製造、販売の独占権を与えられ、明治維新まで続いた。
この資料によると、本宿村の百姓が所持する秤は全部で七挺で、最も大きい秤は二六貫目秤(九七・五キログラム)、次に二貫目秤(七・五キログラム)、皿秤がある。また、綿秤が四挺もある。市域でも綿の栽培と売買が行われていたことを物語るものである。
なお、これらの秤は御用秤として正式に認められており、時々こうした改めが前述の守随彦太郎の手で行われていた。