北本市史 資料編 近代

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第3章 北本の教育

第4節 戦時体制下の教育

232 昭和二十年(一九四五) 学童疎開の思い出
   (中丸小学校史)
二十二年前というと短い年月のようであるが、その間の社会の変遷があまりにも急激であるためにこの稿を起すに当っての資料蒐集は困難をきわめ、意をつくさぬものも多いのであるが後記小編から当時を類想されたい。
一、疎開地へ出発(座談会から)
A「わたしは遠足に行くような気持でした。」
B「そうでしたね。修学旅行に行くみたいな気分でしたね。戦争をまだそこまで感じていなかったから、ただ大勢で行かれるというそれだけの気持が残っています。あまり悲劇感みたいなのはなかった。」
C「戦争のみじめさ、こわさなどというものに全然経験がないんだから。」
A「先生といっしょに生活するんだから、これからは勉強ばかりやらされるんじゃないかと、そっちの方が心配でした。」
二、はじめのころ(作文から)
最初の幾日かは全く夢中でした。親と別れた悲しさはどこへやら、見知らぬ土地のめずらしさにまぎれていました。
ある日、私の班のN君が泣いていた。私は体のぐあいが悪いのかと思って聞いたが、よくわからない。ふと私はN君の手をみてはっとした。N君の手にはお母さんからの手紙がにぎりしめられて居たからです。
私にしたって同じ気持でした。が、班長である私はじぶんの役目を感じていっしょに泣くわけにはいきませんでした。
三、生活(その一)
皇后陛下より疎開学童に賜ったお歌
 次の世を背おうべき身ぞたくましく正しく
   伸びよ里に移りて
毎朝、朝礼時に奉唱しました。
このお歌といっしょにおかし(ビスケット)が下賜されました。もちろん食べる前に先生から長々とお説教がありましたが、その味は今でも忘れられません。
一枚一枚よくかみしめて食べたものです。
    (その二)
 いも、いも、いもにはおどろきました。
 朝食-いもがゆ
 昼食-ふかしいも
 夕食-いもごはん
その当時で、わたしの一生食べる分のおいもを食べてしまったのでしょう。今ではちっともおいもを食べる気になりません。ばちがあたるかしらこんなこといって。
    (その三)
村の学校へ行ったり、寮の中だけでやったりの学習でした。何をやったかおぼえていませんが、先生が一つ一つていねいに教えてくださったことだけが印象に残っています。
平和な時代にこのような全人教育が行われたらすてきだと思いますね。あら、わたし教育ママじゃないわよ。
    (その四)
虫には困りました。ええ、のみ、しらみです。そうとう清潔にはきびしい方だったのですが、どうにもなりませんでした。
下着の熱湯消毒をしたり、のみとり競争をしたり、これはまったくいやな思い出です。
    (その五)
「さけかん」が配給になって、これはみんな大好きでした。
さけごはんなどという珍味をいただきましたが、その後どう作って見てもあの味が出ません。やはりぜいたくになれたからでしょうか。
    (その六)
誰だったかな。おかぼ畑を見て「この雑草は行儀よく生えてるなあ。」といったのは。
さつま畑で、「どくだみだな。」といったのもいたよ。何しろ林や畑の作物の所有権などということに思いも及ばぬ都会児ですから、ずい分失敗をしてどなりこまれ、先生がお百姓さん方に一生けんめいあやまっていましたよ。
四、東京空襲に燃える
東京の中心地区が無差別焼い爆撃を受けたのは昭和二十年三月三日の未明です。
わたしどもも空襲警報下でしたが、しごくのんびりしていました。しかし南の空が赤く染まるのを見て、「これは容易ではないぞ。」と顔が青ざめる感じでした。
―――日本橋は全滅だ―――
との知らせを受けた時まず頭にひらめいていたのは、「こどもを動揺させてはいけない。」ということでした。

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