北本の仏像

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Ⅱ 各地区の仏像

1 中丸地区(旧鴻巣領)

 寿命院

寿命院 深井651 →(寺院詳細)

新義真言宗 京都智積院末、殿林山金蔵院と号す。古は持明院、天正年中御朱印十石の寺領を受けた頃より今の寺号に改める。開山圓俊文明年中(1469~86)示寂。その後深井六郎次郎景孝の中興するところとなる。墓所の石碑に金蔵院殿性水理道居士、天文二年(1533)二月三日、またその子対馬守景音の碑に瑞信院殿厳洞居士、慶長十六年(16H)二月十一日卒と見える。その他代々の碑を建つ。宮地(現鴻巣市)の百姓勘右衛門の先祖。本尊は大日。(『風土記稿』)
市内きっての大寺で、中丸地区の真言寺院のほとんどが当院を本山としている。寺の沿革については『風土記稿』の他に、当院所蔵の『深井氏系図』(写)がある。それによれば、当院の中興は深井六郎次郎景孝ではなく、その息景音とされ、彼が父の菩提を弔うため古への持明院を再建し、名を寿命院と改め、自分の四男を出家させ淳海と名付け、当院第六世住職に据えた、と見える。その真偽はともかく、当院が深井氏の菩提寺として勢威を誇って来たことは確かで、現に境内の一角を占める墓所には、景孝に初まる深井氏累代の石塔が林立している。深井氏は上州白井城主長尾景春の血筋をひく景孝が当所に生まれ、在名を以て姓としたことに初まり、その息景音以来土着して深井地区一帯の開発に従事し、家康の関東御入国に際しては鴻巣宮地の地に数町の余地を賜り、代代土地の郷士として繁延を極めたという。景吉の住居は、寺の東方の小名堀の内の地にあったとされ、『風土記稿』当時、俗に「対馬屋敷」と呼ばれていたようだが、現在は宅地化のためその痕跡を留めていない。


【木造大日如来坐像】

寿命院 木造大日如来坐像

〔品質〕寄木造、玉眼、漆下地に金泥彩
〔法量〕像 高 50.5 臂 張 28.5 膝 奥 30.0
『風土記稿』にいう本尊大日に該当するもので、頭上に丈の高い垂髻を結い、華やかな宝冠をかぶり、身に条畠、裳のほか臂釧、腕釧等の装身具をつけ、胸前で左挙の人差指を右挙で握った智挙印と呼ばれる印を結ぶ金剛界の大日である。大日如来には、この他に結跏趺坐した膝上で法界定印(左掌を仰ぎ、その上に右掌を重ね二大指の先を合せ支える)を結ぶ胎蔵界の大日があるが、いずれも如来ではありながら菩薩形で現わされるところに特色がある。宇宙の真理を象徴する仏として真言密教の最高教主に置かれているため、真言寺院の本尊にはよくこの二像が用いられている。形制相整った、端正な像容を見せているが、彫技は硬く、全体に生彩感に乏しい仕上りとなっている。
製作期は江戸初期から中期頃にかけての造立と思われ、自毫を欠失する以外はこれといって損傷のない保存良好な作品である。

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