北本のむかしといま Ⅱ 狩りから稲づくりへ
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Ⅱ狩りから稲づくりへ
3 米づくりのむら
縄文時代から弥生時代へ縄文時代の暮らしが約ー万年もの長い間にわたって続いたころ、日本列島の西の端に朝鮮半島から米をつくる技術が伝えられた。西暦前五世紀ごろ、今から約二五〇〇年ほど前のことである。米づくりの始まりによって、日本列島は弥生時代へと移った。この時代は金属の道具が使われ始め、社会の仕組みが整えられていった時代である。弥生時代の続いた期間は、長くみても七〇〇年あまりで、縄文時代とくらべるとはるかに短いが、今日の私たちの生活や文化を決定づけた重要な時代である。
米づくりの始まりに伴って、それがスムーズに行えるように社会の仕組みや人間関係が変わった。大人も子どもも男も女も、米づくりを中心とした社会のなかで、それぞれの役割を分担するようになった。実りある収穫が得られるよう、神と自然と大地に祈りをささげる農耕儀礼(のうこうぎれい)も始まった。
思いもよらない変化もあった。米づくりの開始に伴う人々の定住によって、急速に人口が増加した。それは耕地の拡大をうながし、そのために森林が切り開かれ、自然の植生の変化を引き起こした。しかも伐採(ばっさい)された禿(は)げ山(やま)はしばしば洪水を発生させて、災害をもたらした。また、水田や貯蔵された種もみの奪(うば)い合いは戦争を生み出した。つまり弥生時代は、環境破壊や戦争など、現代のわれわれがかかえる社会問題を発生させた時代でもあるのだ。
なお弥生時代という呼び方は、「弥生式土器」が使用されていた時代という意味でつけられた。この土器の特徴は、大型の壷(つぼ)、鉢型の甕(かめ)、高坏(たかつき)などの器形をもち、表面を木の板でこする刷毛目(はけめ)という整形をすること、同じく表面に櫛描文(くしがきもん)という文様を描くことなどである。これらの特徴をもつ土器が、東京都文京区の弥生町で最初に確認されたため、この名がつけられたのである。