北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍

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Ⅲつわものの活躍

4 武蔵武士と鎌倉幕府

武蔵武士団
武士団は、文字どおり武士の集団である。武蔵国では、十〜十二世紀にかけて、各地に中小の武士団が生まれた。そのほとんどは、源氏・平氏・藤原氏の系統に属し、残りは国司(こくし)の子孫と、領主化した地元の豪族などである。なかでも桓武平氏(かんむへいし)が圧倒的に多く、県内では坂東(ばんどう)八平氏のひとつである秩父氏一族をはじめとして各地に勢力をはった。源氏の本格的な進出は、十一世紀になってからである。藤原氏では太田氏・比企氏・斎藤氏、そして足立氏がいた。
秩父氏は、村岡五郎良文の子忠頼から出て、その子将常(まさつね)が武蔵権守(むさしごんのかみ)となり、秩父郡中村郷(秩父市)を本拠として秩父氏を名のったことに始まる。その子武基、孫武綱の代にかけて秩父牧を基盤として領主化し、武士化した。秩父氏は、子孫が栄えた。直系の畠山氏をはじめ、葛西(かさい)・豊島(としま)・河越・江戸氏などの有力諸氏に分かれ、その支配地は、秩父郡を中心に大里・入間・豊島郡から下総(しもうさ)・相模(さがみ)国にまで及んだ。

写真26 武蔵七党の系図を記した江戸時代の写本

(国立公文書館内閣文庫蔵)

武蔵国は、いわゆる豪族的な領主は存在せず、そのため下総・上総に見られる大きな武士団は成長しなかった。なかでも、よく知られているのは武蔵七党である。七党とは、横山・猪俣(いのまた)・野与(のよ)・村山・児玉・丹(たん)・西の諸党をさすといわれるが、ほかにも私市(きさい)・綴(つづき)が入れ替わる場合などがあって、一定していない。「党」とは、同族的な武士団のことである。武蔵の場合は、同族的といっても、有道(うど)姓の児玉党に藤原姓の小代(しょうだい)氏がいたように、必ずしも血縁でむすばれていたわけではなく、他の氏族が入ってくることもあった。党を形成しているそれぞれの家の関係は対等で、独立性を保つていた。例えば、所領に対する領主権も、一族の惣領(そうりょう)(嫡子(ちゃくし)、一族の長)の家から干渉されることはなかった。七党には、都から下ってきた国司の子孫もあるというが、その系譜は複雑で明らかでない。

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