北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍
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Ⅲつわものの活躍
1 大王勢力の進出と无邪志
稲荷山の鉄剣昭和四十三年(一九六八)、行田市にある埼玉古墳(さきたまこふん)群中の稲荷山(いなりやま)古墳の発掘調査で、たくさんの副葬品が発見された。一〇年後の昭和五十三年、そのうちの一口(ふり)の鉄剣に一一五字にも及ぶ銘文が刻まれていることが、レントゲン撮影で確認された(写真19)。

写真19 大和朝廷と関東との関わりを示す金錯銘鉄剣
(埼玉県立さきたま資料館蔵)

写真20 鉄剣が発見された稲荷山古墳の礫槨(れきかく)
(埼玉県立さきたま資料館蔵)
その銘文は、ヤマト大王家のワカタケル大王に仕(つか)え、その天下統一事業をたすけた、私ヲワケという者が、辛亥(しんがい)の年にこの剣をつくらせた、という意味に解読された。その解釈をめぐってはさまざまな議論があったが、ワカタケル大王は雄略(ゆうりゃく)天皇、辛亥の年は西暦四七一年であるとされた。
鉄剣をつくらせたヲワケについては二説がある。ひとつは、銘文にオホヒコを上祖(かみつおや)とすると書いてあることを重視して、大王をささえていた大和(やまと)の中央豪族・阿倍氏の一族の者とする説。もうひとつは、鉄剣が行田市の稲荷山古墳から出土したことを重くみて、武蔵豪族とする説である。どちらの説をとるかはむずかしいが、銘文の表現や象嵌(ぞうがん)の技術などからみて、この鉄剣の製作は大王の近くに仕えていた者が製作した可能性が高いこと、それに稲荷山古墳は埼玉古墳群内で最も古い古墳とみなされることなどから、ヲワケを在来の武蔵豪族と考えるには無理があることなどから、ヲワケは中央豪族である阿倍氏系の者で、大王の命令で関東に派遣されて埼玉に本拠をおいたが、やがてここで死去、埋葬された人物と考えられるとする。
つまり、この鉄剣は、大和(奈良県)に本拠を置いて全国統一の事業を進めていた大王の勢力(大和朝廷)が、五世紀にはヲワケのような中央豪族に属する臣下をつかわすほど関東に進出していた、ということの具体的な裏付けと考えるのである。