北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍
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Ⅲつわものの活躍
6 御家人足立氏と足立郡
有力御家人・足立遠元源範頼(みなもとののりより)・義経(よしつね)に率いられた東国武士が、西国で平氏と激しい戦いを続けていたころ、鎌倉では頼朝を中心に幕府の土台づくりが進んでいた。元暦(げんりゃく)元年(一一八四)十月、公文所(くもんじょ)(のちの政所(まんどころ))と問注所(もんちゅうじょ)が続けて設置された。これで、以前から設けられていた侍所(さむらいどころ)と合わせて、鎌倉幕府の中央三機関がそろった。問注所は訴訟(そしょう)・裁判を扱い、侍所は御家人の統制にあたり、公文所は庶務・財政など一般行政の仕事を受け持った。公文所には、別当(べっとう)(長官)一名と寄人(よりうど)(職員)六名がおかれ、別当の大江広元以下、京で官人(役人)の経験のある者たちが任命された。そのなかで、ただ一人、武蔵武士から選ばれて寄人となったのが、すでに何回も登場している足立遠元(あだちとおもと)である。
足立氏の出身は、はっきりとは分からない。系図などによると藤原氏の出身で、父遠兼の時代に武蔵国足立郡に住み、足立郡司(ぐんじ)職につき、遠元がそれを受け継いだという(図19)。系図はそのまま信用することはできないが、一応は平安時代末期、父の時代には足立郡司を継承していたとみていいだろう。他に十世紀の足立郡司である武蔵武芝の子孫で、代々武蔵国に住んだ地元の豪族という説もある。
図19 足立氏系図
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(『市史通史編Ⅰ』P四三七より引用)
足立遠元の娘は、頼朝が挙兵する以前に、後白河院の近臣である藤原光能(みつよし)の妻となっていた。遠元が藤原氏を名のったのは、このためだろう。その光能の姉妹が、頼朝に先駆けて平氏打倒に立ち上がった以仁王(もちひとおう)の妻であった。この関係から、遠元は武蔵武士としては珍しく京の事情にくわしかった。頼朝が遠元を公文所の寄人とした背景には、遠元が武蔵武士を代表する人物のひとりだったというほかに、数少ない京に通じた武士という理由もあった。
遠元は、平氏滅亡の直後の文治(ぶんじ)元年(一一八五)十月、義朝追悼(ついとう)のために建てられた勝長寿院の落成の儀式のときには、頼朝の直後に位置する布衣衆(ほいしゅう)のひとりとして列席した。これは、武蔵武士の名門、秩父一族の畠山重忠などよりも、一段と高い序列で、幕府の「宿老(しゅくろう)」(高臣)として扱われていた。建久元年(一一九〇)、頼朝が京に上ったときには、遠元もこれに従った。京に滞在中、関東御家人(ごけにん)のうち一〇名が特に選ぱれて、朝廷から官位をさずけられたが、武蔵武士としては比企能員(ひきよしかず)と足立遠元が入っていた。このとき遠元は、左衛門尉(さえもんのじょう)となった。
正治元年(一一九九)、頼朝が死去し、長男の頼家が二代将軍となった。若い頼家は、頼朝がもっていた人格的な権威や御家人との私的なつながりをもっていなかった。そのため幕府は、将軍ひとりが政治を決定することをやめ、北条時政(政子の父で、頼家の祖父)・北条義時(政子の弟)・比企能員(頼家の妻の父)・安達盛長など有力な御家人・側近一三名の合議制をとることにした。足立遠元は、このなかにも入っている。遠元は、幕府の最有力の御家人のひとりであった。
その後、北条氏が幕府内の権力を奪い取っていく過程で、比企能員(ひきよしかず)・畠山重忠・平賀朝雅(ひらがともまさ)・和田義盛など、頼朝以来の有力御家人は次々に倒されていったが、足立遠元にはそのような記録はない。おそらく、無事に生涯を終えたのだろう。