北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍
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Ⅲつわものの活躍
7 鎌倉府の支配
鎌倉幕府の崩壊正和五年(一三一六)、北条高時が得宗(とくそう)になり、鎌倉幕府の第一四代執権(しっけん)(幕府の政治を統括(とうかつ)する職)に就任した。このころになると、幕府の政治は、得宗とこれを取り巻くひとにぎりの者たちによる強権的な独裁政治になっていた。そのため、人々の心は北条氏から離れ始めた。それとともに、政治・社会のあらゆる面で混乱が生じてきた。
一方、京では、文保二年(一三一八)に即位した後醍醐(ごだいご)天皇が、しだいに鎌倉幕府を倒す意志をかため始め、二度にわたり挙兵した(正中の変、元弘の変)。これは幕府軍のまえに失敗し、天皇は隠岐(おき)(島根県)に流された。しかし、その後も楠木正成(くすのきまさしげ)が河内(かわち)(大阪府)で幕府軍を悩ませるなど、幕府に反対する武士たちの反乱は各地で起こった。元弘三年(一三三三)閏(うるう)二月には、反乱は全国的なものとなつた。隠岐にいた後醍醐天皇も脱出し、伯耆(ほうき)の船上山(せんじょうせん)(鳥取県赤崎町)から倒幕の命令を全国に発した。

写真36 足利高氏に攻められて自刃した六波羅探題勢の名を記す陸波羅南北過去帳
(滋賀県米原町蓮華寺蔵 埼玉県立博物館提供)
元弘三年三月、後醍醐天皇討伐に向かった幕府軍の大将、足利高氏(あしかがたかうじ)は、その途中で反旗をひるがえし、逆に京の六波羅探題(ろくはらたんだい)(幕府の出先機関)を攻めた。高氏軍に追われた北条仲時以下四三〇名の探題勢(たんだいぜい)は、近江国番場(ばんば)(滋賀県米原町)の蓮華寺(れんげじ)で自刃し、六波羅探題は滅んだ。このなかに、足立氏・片山氏・河越氏・豊島氏などの武蔵武士がいた(写真36)。
一方、関東でも上野(こうずけ)の新田義貞(にったよしさだ)が挙兵、足利高氏の嫡子(ちゃくし)千寿王(せんじゅおう)を奉じ、鎌倉をめざして鎌倉街道を馳(は)せのぼった。途中で河越(かわごえ)氏・江戸氏・豊島氏・武蔵七党以下の武蔵武士が加わった新田軍は、同年五月十八日、鎌倉に攻め入った。敗れた北条高時以下約八〇〇名は、東勝寺で自害し、ここに約一五〇年間続いた鎌倉幕府は滅亡した。