北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍

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Ⅲつわものの活躍

9 岩付城主太田氏の支配

太田氏の登場
康正(こうしょう)元年(一四五五)に足利成氏が古河公方(こがくぼう)となって以降も関東の争乱はとどまらず、関東管領(かんれい)家上杉氏の内部抗争から後北条氏の関東進出へと続く、長い戦乱の時代に突入していく。この間に、関東府による関東支配がくずれ、武蔵国などにおいては、地元の有力者が周辺に進出し、広い支配地と武士団をもつ地域的領主(国人領主(こくじんりょうしゅ))へと成長していった。太田氏もその一例で、扇谷(おうぎやつ)上杉氏の家宰(かさい)(家老)として歴史に登場し、岩付(岩槻)城を本拠として市域を含む周辺地域一帯を支配する領主に成長した。
太田氏は、清和源氏の出身で、鎌倉時代の初め源頼朝の御家人となった。その子孫資国(すけくに)が丹波国(たんばのくに)太田郷(京都府亀岡市)に住んで、太田氏を名のったという。資国は、同じ丹波国上杉荘の領主上杉重能(しげよし)(あるいは重房)に仕え、建長四年(一二五二)、重能にしたがって関東に下り、相模国(さがみのくに)に移り住んだという。その後、太田氏は扇谷上杉氏に仕え、資国から四代後の太田道真資清のころにはその家宰となった。しかし、以上の経歴は資料のうえからはほとんど不明で、実際のところは、室町時代後半の争乱のなかで下克上(げこくじょう)の風潮にのって成長してきた新興勢力であったろう。
太田道真は、結城(ゆうき)合戦(嘉吉元年・ 一四四一)の後の関東府を、山内上杉氏の家臣長尾景仲とともにとりしきり、足利成氏が関東公方になると、これと対立した。主家の扇谷上杉氏ではなく、その家臣である太田道真が関東公方と対立したところに、太田氏の台頭とその存在の大きさがうかがえる。この道真の子が、有名な太田道灌(どうかん)(資長)である。

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