北本のむかしといま Ⅳ 大江戸を支えた村むら
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Ⅳ大江戸を支えた村むら
1 徳川家康の入国
幕府と寺江戸幕府は、豊臣秀吉の政策を引き継いで、キリスト教を禁止した(慶長十八年・一六二二)。そしてそれを徹底するため、宗門改めと寺請(てらうけ)制度を実施した。これらは、すべての人が仏教徒として特定寺の檀家(だんか)になること、結婚や移転、旅行のときはその寺の証明が必要なことなどを決めた。このため、江戸時代には全国で寺がたくさんつくられ、ほとんどの村に寺があった。寺は戸籍を扱う役所の性格をもっていたため、寺を通じて、幕府は人びとの動きを知ることができた。江戸時代の市域には三一か寺あった。そのうち、深井の寿命院が十五世紀半ば(室町時代)に創建されたのを除くと、残りの寺は、宗門改め・寺請(てらう)け制度の開始された十七世紀前半にできたと考えられている。その後、廃された寺もあって、現在市域に残るのは寿命院・多聞寺・勝林寺・大蔵寺・安養院・無量寿院・放光寺・東光寺・真福寺等である。
寿命院には、徳川家康をはじめ幕府歴代の将軍から受け取った朱印状(しゅいんじょう)が一一通残っている。朱印状は、江戸幕府の将軍が知行宛行(ちぎょうあてがい)や安堵(あんど)などの重要な文書に朱印を押したものである。寿命院にある家康の朱印状(写真64)は、同院に一〇石の土地を寄進(寄付)し、その土地からは税をとらないという内容である。一〇石の土地はたいして広くないが、将軍からじきじきに土地を寄付され、保護を受けた点が大事なのである。これによって寿命院は御朱印寺(朱印状をもらった寺)という権威が与えられた。逆にいえば、幕府は寺領や保護を与えることで寺を幕府に従わせ、幕府の支配の仕組みのなかに組み入れたのである。
写真64 寿命院に伝わる徳川家康の朱印状
(天正19年)