北本のむかしといま Ⅴ 富国強兵の名のもとに
社会1 >> 北本のむかしといま >> Ⅴ 富国強兵の名のもとに >>
Ⅴ富国強兵の名のもとに
3 不況風の吹くなかで
地方改良運動と模範村・石戸村日露戦争が終わったあと、政府の提案により全国で「地方改良運動」が進められた。 これは、町ぐるみ・村ぐるみで社会的な活動を行って、町村自治の力を高めていこうという運動であった。そのもとになったのは、明治四十一年(一九〇八)に出された明治天皇の詔書(戊申詔書(ぼしんしょうしょ))で、「みんなが心をひとつにして仕事を忠実につとめ、勤勉によく働いて貯蓄をし、ぜいたくをせず、なまけることなく励みなさい」といった内容であった。これを受けて、埼玉県の島田剛太郎知事は県民に対し、まじめに働いて貯蓄すること、町や村の事務を整理して財産を蓄積すること、教育を改善すること、自治や教育などの成績優良な団体(模範村)を表彰すること、などを指示した。
同四十二年十月、『国民新聞』は石戸村の活動を紹介し、模範村の資格をもっていると報道した(写真119)。このことから、石戸村の活動ぶりがすでに注目され、評価を得ていたことが分かる。そして、翌四十三年五月に石戸村は、鴻巣町(鴻巣市)・新倉村(和光市)とともに、北足立郡の模範村に選ばれた。
地方改良運動と関係のある石戸村の活動は、すでに紹介したものも含めて、次のようなものだった。
・明治三十五年に石戸村農会を設立し、農業の改良を進めた。
・同四十一年に石戸村信用購買販売組合を設立し、農作物の共同購買や販売、組合員の貯金などを推進した。
・同四十一年に、村内の三つの小学校を統合して、石戸尋常高等小学校を新築した。
・同四十二年に、『石戸時報』を発行して、教育・行政のことなどを村民に広く伝えた。
・同四十二年に、石戸村教育会を設立して、さまざまな教育活動を進めた。
・同四十三年に、耕地整理事業を完了させた。
このような多彩な石戸村の活動の中心となったのは、村長・吉田時三郎、助役・新井勇左衛門、石戸尋常高等小学校校長・上野多三郎の三人である。吉田時三郎は、明治三十四年から大正八年(一九一九)まで石戸村村長をつとめ、それまで何かと混乱の多かった村をうまくまとめた。農会・組合・教育会の長も兼任し、県会議員にもなった。新井勇左衛門は、二〇年以上も助役をつとめて、吉田村長を補佐した。上野多三郎は石戸尋常高等小学校の初代校長で、石戸教育会の中心になって青年補習教育をはじめさまざまな教育活動を推し進めた。その事業の一環として明治末から大正初めに石戸尋常高等小学校の教職員がまとめた『石戸村郷土誌』(写真120)は当時の石戸村のようすを知るための貴重な資料で、平成五年三月に北本市史編さん室から復刻版が発行されている。

写真119 石戸村の模範的な活動を紹介する『国民新聞』
(明治42年10月17日付)

写真120 明治時代の石戸村のようすを伝える『石戸村郷土史誌』
(石戸小学校蔵)

写真121 生活習慣の改善をめざす宮内五戸組合矯風会の申合規約
(長島末吉家蔵)