北本のむかしといま Ⅴ 富国強兵の名のもとに

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Ⅴ富国強兵の名のもとに

4 戦時下の村と暮らし

戦争協力体制へ
昭和という時代は、暗い幕開けになった。日本経済は、大正九年(一九二〇)の第一次大戦後の戦後恐慌(きょうこう)以来ずっと不況のままで、建て直しできないまま昭和をむかえていた。昭和四年(一九二九)十月、ニューヨーク株式市場の突然の株価大暴落は、またたくまに世界中に波及して、世界恐慌が始まった。農村も大打撃を受けた。日本の輸出金額の三六パーセントを占めていた生糸(きいと)価格も暴落したからである。当時の全国の農家戸数、約五六〇万戸のうち、その四割近い約二二二万戸が養蚕(ようさん)を生業か副業にしていた。養蚕は貴重な収入源だった。世界恐慌は、それらの農家を直撃し、現金収入の道を絶ったのである。続いて米価が暴落し、翌年には東北・北海道が大凶作となって、農家の状況はいっそう深刻になった。このひと続きの流れを、農業恐慌ともいう。
市域でも農業恐慌の影響は大きかった。昭和七年、石戸村は経済更生計画(経済建て直し計画)を提出した。桑園(そうえん)を畑にかえてほかの作物を栽培する、石戸トマト・茶など園芸農産物を増産する、などである。しかし、こうした自力更生(じりきこうせい)(自分の力で建て直す)の努力が始められたころ、日本はすでに満州事変という戦争に突入していた。
昭和六年の満州事変に始まり、同十二年からの中国との全面戦争、そして二十年の第二次世界大戦敗戦まで、日本はずっと戦争状態にあった。だから、この期間を十五年戦争の時代とも呼ぶ。
昭和十二年(一九三七)八月、政府は国家総動員法に基づく「国民精神総動員実施要綱」を決定した。そのかけ声は、国民みんなが国家のために心をひとつにし(挙国一致(きょこくいっち))、国家に忠誠をつくし(尽忠(じんちゅう)報国)、がまんづよく持ちこたえ(堅忍持久(けんにんじきゅう))、総力をあげて戦争を続ける体制を確立しょうというものだった。実施のための機関として国民精神総動員中央連盟という団体がつくられ、府県・市町村の隅々にいたるまで組織化が行われた。市域では、昭和十二年(一九三七)に石戸村軍人後援会が結成され、兵隊さんの慰問や戦病死した軍人の慰霊祭の実施などの活動を行った。同年十一月には、中丸・石戸青年学校で軍事訓練が行われた。「銃後(じゅうご)」という言葉が叫ばれ、直接戦争に加わらない国民もよく働き、貯蓄や節約をすることで国に奉仕することが求められた。

写真133 国民精神総動員の横断幕

(加藤一男氏提供)

写真134 太平洋戦争に出征する兵士と家族の記念写真

(昭和19年 金子敏郎氏提供)

中国との戦争の長期化に伴い、昭和十五年には大政翼賛(たいせいよくさん)運動が始められた。一億の国民が天皇の臣下であることを自覚し、心をひとつにして戦争をやりぬくための国民運動であった。近衛(このえ)首相を総裁とする中央本部のもと、各府県・市町村には支部がおかれ、農会・青年団・在郷軍人会などの団体も組織ぐるみで参加させられた。特にこの運動の中心となることが期待されたのは、市町村常会・町内常会・部落会と、その末端の組織である隣組である。石戸村では同年十一月に、石戸村常会規約・石戸村部落規約が決められた。常会を構成する委員になったのは、村長のほか、助役・部落会長・農会長・信用組合長・村会議員・小学校職員・教育会長・青年団長・愛国婦人分会長などだった。
昭和十六年(一九四一)に太平洋戦争に突入すると、国をあげての軍事体制はいっそう強化された。政府の命令は町内会・部落会を通じて末端の隣組に伝えられ、隣組はこれを受けて、食料や生活物資などを各戸に割当てたり、国防献金をしたり、金属や廃品の回収などを行ったりした。また、大政翼賛運動の原動力として翼賛壮年団が全国で組織され、国民の精神を高め、戦争下での心がまえを徹底し、銃後の奉公活動を強化するなどの活動を行った。市域でも、同十七年に中丸村翼賛壮年団・石戸村翼賛壮年団が結成された。このうち石戸村翼賛壮年団の構成員は一〇〇名で、情報・産業など六つの部に分かれ、その下に各部落会ごとに一五の班がおかれた。翼賛壮年団は村の常会と一体となり、全村をあげての運動が行われた。例えば、翼賛壮年団の提案で、北本宿駅までの約二キロメートルの道の修理が行われた。これは、駅までの道こそ国家へとつながる道であり、これをきれいにして、毎日歩くことによって、国のありがたさや、国民としての責任を自覚する、という発想から実施されたものだった。
国をあげての戦争協力体制は村の隅々にまでしみこんだ。それは昭和二十年の敗戦まで続いた。

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