北本のむかしといま Ⅵ 首都近郊圏として
社会1 >> 北本のむかしといま >> Ⅵ 首都近郊圏として >>
Ⅵ首都近郊圏として
2 都市化から文教のまち北本へ
北本町の発足町村合併が一段落した昭和三十一年(一九五六)、埼玉県の市の数は九市から一八市へと倍増し、逆に町の数は四四か町から三六か町へと減った。同三十四年、北本宿村の状況は、人口 一万五〇〇〇人、うち非農業人口が五割を超えるなど、埼玉県条例が示す村から町への移行要件六つをみたしていた。ここで当然のように、町制への移行を求める声があがった。同年九月四日、木村卯之吉村長は、住民も町制移行を熱望している、気分を一新して住民の福祉をいっそう増進させたいとして、県知事あてに町制許可を申請した。
当時は、経済成長とそれに伴う大都市への人口流入、その周辺地域の都市化が始まろうとする時期だった。町制施行にあたって県知事が内閣総理大臣にあてた文書には、北本宿村が東京への通勤地域として発展していること、商工業都市・衛星都市として発展するのが適当と考えられること、などが書かれている。
町制移行にあたっては、町名を変更すること、新しい町名は住民から募集することが決まった。昭和三十四年八月二十七日に町名公募のパンフレットを全世帯に配り、九月五日の締め切りまでに五四一名から約三〇〇の町名が寄せられた。集まった町名は、北本・中山道から発想した「北・本・仲・中」、新しく生まれる町への期待をこめた「新・富・栄・豊・美・若・和」などの文字を組み込んだものが多かった。雄大な日本・北都・関東町、心やさしい愛住・望妻・和合町、そのものズバリの栄華・黄金町、宗教的な意味をこめた解脱・聖座・正徳・大師・日法町、こりすぎて意味がよく分からない相子(あいこ)・一心・冠者・北令名・師川・天矢・女仙町、さらに芋名・藷宿(いもじゅく)・雑木・強立・仲吉・男女・生姜(しょうが)町などの町名もあった。

写真151 北本町誕生を記念して行われた祝賀行事
(昭和34年)
町名審議会で投票した結果は、一位・美治(みはる)町、二位・北園町、三位・北本町であった。しかし、同年九月七日の村議会では、「文字が書きやすい」「簡単明瞭(めいりょう)で呼びなれている」「他地方の人にすでに北本と略称されて親しまれている」などの理由から、新町名は「北本町」とすることが、満場一致で決まった。
昭和三十四年(一九五九)十一月三日、北本町が誕生した。正確には、この日、北本宿村に町制が施行され、同じ日、北本宿町が北本町に名称変更になったのである。当日は、北本中学校で祝賀式典が行われたほか、祝賀パレードや夜には提灯(ちょうちん)行列なども行われた(写真151)。
同三十八年四月、鉄筋二階建て一棟・一階建て一棟、延べ面積一三二二平方メートルの役場庁舎を新築し、ここに移転した。現在の市庁舎である。