北本のむかしといま 付録
付録
略年表古代(詳細はクリックしてご覧ください)
年 号 | 西 暦 | 事 項 | |
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旧石器時代 | 約三万年前 | ・ | 旧石器時代の遺物が検出されている遺跡として、八重塚遺跡、諏訪山遺跡、提灯木山遺跡、宮岡氷川神社前遺跡、宮岡遺跡Ⅰがある |
縄文時代 | 約一万年前 | ・ | 台地上に森林が形成され始め、縄文時代が始まる |
約7000年前 | ・ | 縄文人の漂泊的な生活が営まれ、土器・弓矢かつくられ始める | |
約6000年前 | ・ | 下石戸上に隣接する桶川市川田谷の谷津に貝塚ができる | |
・ | 荒川低地や江川の谷に、奥東京湾の海進がある | ||
約4500年前 | ・ | 荒川低地や江川の谷から、奥東京湾の入江が後退する | |
約3000年前 | ・ | 集落の規模が大きくなるとともに、分村して集落数がふえ、安定した生活が営まれる | |
約2000年前 | ・ | 大宮台地が安行文化圏の中心的な地域となる | |
約600年前 | ・ | このころ、高尾の宮岡に集落ができる 精巧な土製耳飾がつくられる | |
弥生時代 | 約100年前 | ・ | このころ、関東地方に弥生文化が波及し、水稲耕作か始まる |
50 | ・ | このころ、宮ノ台式土器を伴う集落ができる | |
150 | ・ | このころ、赤堀川流域にも農耕集落が営まれる | |
243 | ・ | 邪馬台国女王卑弥呼、魏の皇帝に遣使 | |
古墳時代 | 300 | ・ | このころ、大宮台地の樹枝状谷の沿岸に大集落が出現し、荒川沿岸の台地上にも農耕集落ができる |
成務 | ・ | このころ、兄多毛比命が无邪志国造となる | |
仁徳 | 471 | ・ | この年、稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣に115文字の銘文が刻まれる |
478 | ・ | 倭王武、宋に上表文提出 | |
・ | このころ力マドを備えた住居が現れる | ||
500 | ・ | このころ、荒川沿岸の台地上に古墳がつくられ始め、市域では荒井の北袋に前方後円墳ができる | |
安閑 元 | 534 | ・ | この年、武蔵国の笠原直使主と同族小杵が武蔵国造職を争う |
538 | ・ | 仏教の伝来 | |
舒明 5 | 633 | ・ | この年、物部連兄麻呂が武蔵国造となる |
大化 元 | 645 | ・ | 大化改新 |
650~700 | ・ | このころ、高尾の中井や荒井の八重塚に古墳群が築造される | |
大宝 元 | 701 | ・ | 大宝律令の制定、国郡里を設置 |
大宝 3 | 703 | ・ | 従五位下引田朝臣祖父が武蔵守となる(武蔵守初見) |
宝亀 2 | 771 | 10 | 武蔵国が、束山道から東海道に編入される |
天安 3 | 859 | 1 | 足立郡の氷川神に、従五位上が授けられる |
貞観 3 | 861 | 11 | 武蔵国の各郡に国検非違使1人が置かれる |
・ | このころ、北本市現存最古の文字が須恵器に記される | ||
承平 8 | 938 | 2 | 武蔵権守興世王、介源経基が、足立郡司武蔵武芝と争う |
天慶 3 | 940 | 2 | 平貞盛・藤原秀郷、将門を討つ |
保元 元 | 1156 | 7 | 保元の乱が起こる |
平治 元 | 1159 | 12 | 平治の乱が起こり足立右馬允遠元ら武蔵武士が、源義平に従う |
治承 4 | 1180 | 6 | 安達盛長は、源頼朝の命を奉じて累代の御家人を召集する |
10 | 源頼朝は下総国より武蔵国に入り、足立遠元らが迎える | ||
10 | 源頼朝は、足立遠元に足立郡郷の領掌を認める | ||
寿永 2 | 1183 | 2 | 源範頼は野木宮合戦に従う |
元暦 元 | 1184 | 1 | 源範頼は頼朝の命により、弟義経とともに源義仲を滅す |
6 | 源範頼は三河守に任じられる | ||
10 | 足立遠元は、公文所の寄人となる |
中世(詳細はクリックしてご覧ください)
年 号 | 西 暦 | 事 項 | |
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文治 3 | 1187 | 10 | 吉見頼綱は畠山重忠の所領伊勢国沼田の御厨を宛行われる |
文治 5 | 1189 | 7 | 源頼朝は伊勢国沼田御厨の地頭、吉見頼網の不法を停止させる |
建久 元 | 1190 | ・ | この年、源頼朝が入洛し、足立遠元ら10人が、任官する |
建久 3 | 1192 | 7 | 源頼朝、征夷大将軍となる |
建久 4 | 1193 | 8 | 源範頼は伊豆国に流された後に殺される |
建久 10 正治 元 | 1199 | 4 | 頼朝家の訴訟の親裁が停止され、北条時政・安達盛長・足立遠元らの合議制が始まる |
貞永 2 | 1233 | 1 | 石戸宿の束光寺にこの年銘の阿弥陀板碑がある |
寛元 3 | 1245 | 8 | 石戸左衛門尉・足立直元らが鎌倉八幡宮放生会の馬場儀で十列を勤める |
寛元 4 | 1246 | 3 | 石戸宿の東光寺に、この年銘の阿弥陀板碑が2基ある |
建長 3 | 1251 | 8 | 深井の寿命院に、この年銘の阿弥陀板碑がある |
文永 9 | 1272 | ・ | 常光別所の無量寿院に、この年銘の阿弥陀板碑がある |
建治 元 | 1275 | 2 | 深井の薬師堂に、この年銘の阿弥陀板碑がある |
建治 2 | 1276 | 3 | 深井の寿命院に、この年銘の阿弥陀板碑がある |
弘安 8 | 1285 | 11 | 安達泰盛の乱(霜月騷動)がおこり、足達泰盛・足立直元らが敗死する |
建武 2 | 1335 | ・ | 足利尊氏・同直義の所領目録に足立郡が尊氏領として見える |
建武 3 | 1336 | 11 | 足利尊氏、幕府を開き、建武式目を制定する |
観応 3 正平 7 | 1352 | 9 | 足利尊氏は、春日行元に足立郡桶皮郷内菅谷を給与する |
延文 6 正平16 | 1361 | 9 | この年の市場祭文に、遊馬郷指扇村・片柳市・かうのすの市・伊草市などが見える |
応永15 | 1408 | 12 | 沙弥妙伏らは、足立郡石戸郷下法師谷村氷河大明神に懸仏を寄進する |
応永24 | 1417 | 8 | 法宣院日英は、末寺講演職などの支配を千代寿と寅菊に任せ、それに河田谷などの名がみえる |
長禄 元 | 1457 | 4 | 足利成氏は、黄梅院の所領を安堵する それに河田村・植竹郡の名が見える |
4 | 太田道真が岩付城を、同資長が江戸城を築いたという | ||
応仁 元 | 1467 | 5 | 応仁の乱始まる |
応仁 2 | 1468 | 3 | 河関田畑の清水三郞二郎は、武蔵国にある旦那職を鳥居御房に売り渡す それに「ふかい」の名か見える |
文明 5 | 1473 | ・ | このころ、高尾村氷川社は、大宮氷川社の男体神を勧請するという |
永生 2 | 1505 | ・ | 高尾村は、太田美濃守資家か支配したという |
大永 4 | 1524 | 4 | 北条家は、相模国当麻宿に伝馬制札を出す それに石戸の名がある |
大永 5 | 1525 | 2 | 北条氏綱は岩付城を攻め落とし、城主太田資頼は石戸城に逃れる |
天文 2 | 1533 | 4 | 深井村寿命院を中興した深井六郎次郞景孝が卒すという |
天文12 | 1543 | 8 | ポルトガル船、種子岛に漂着し、鉄砲が伝わる |
天文20 | 1551 | 9 | 北条家は、市宿新田(現鴻巣市)小池長門守に田畑開発を命ずる |
天文22 | 1553 | 4 | 石戸新左衛門・宮寺雅楽助・とばり次郎三郎らは、実報院に旦那願文を出す |
5 | 聖護院は、足立郡大行院に上足立郡伊勢能野先達衆分旦那職などを安堵する | ||
永禄 2 | 1559 | 3 | 太田資正は、大岛大炊助と深井氏に郷内の朋発を命ずる |
永禄 3 | 1560 | 11 | 長尾景虎は、関東出陣にあたり、市田氏に足立郡の地を安堵する それに河田谷一跡の名がみえる |
永禄 5 | 1562 | 7 | 太田資正は、道祖土図書助に足立郡石戸の駒場の地などを安堵する |
永禄 6 | 1563 | 2 | 北条氏康が松山城を奪う この時、上杉輝虎が石戸に陣を敷く |
4 | 上杉輝虎は、蘆名盛氏に騎西城攻略と石戸着陣などを伝える | ||
永禄 7 | 1564 | 3 | 大島大膳亮久家は、戦功により北条越前守資為より感状を賜わる(このころ、宮内村に居住) また、河目資奸は、大岛大膳亮に刷村を給与する |
7 | 北条氏康は、太田氏資と結んで岩付城を奪取する | ||
9 | 北条氏康・氏政父子は石戸・河越に出陣する | ||
9 | 太田資矩は、結城義親に北条氏康の動向などを伝えるそれに石戸・川越のことが見える | ||
永禄 8 | 1565 | 2 | 太田氏資は、大行院に上足立33郷の伊勢・能野先達の旦那職を安堵する |
4 | 河目資好は、大島大炊助に足立郡宮内村を給与する | ||
永禄10 | 1567 | 8 | 太田氏資は、上総三舟山の合戦で戦死し、以後岩付分国は北条家が直接支配する |
永禄11 | 1568 | 2 | 北条家は、小窪六右衛門尉の訴えを裁許するそれに石戸のことが見える永禄 |
元亀 元 | 1570 | 6 | 北条氏政は、内山弥右術門尉に足立郡馬室窪在家分などを与える |
元亀 3 | 1572 | 6 | 玉縄城主北条氏繁は、大行院に上足立33郷の伊勢熊野先達職を安堵する |
天正 5 | 1577 | 3 | 太田助次郎は、湖巣別所村百姓中に不作の荒野の開発を命ずる |
天正16 | 1588 | 7 | 秀吉、刀狩令を発す |
8 | 太田氏房は、深井対馬守と同藤右衛門に、私領内の竹木切り出しの禁制を出す | ||
天正17 | 1589 | 3 | 太田氏房は、深井藤右衛門らに、糟壁の諸役不入・大普請役などを命ずる |
8 | 太田氏房は、深井対馬守と同藤右衛門尉に山林の領有を安堵する | ||
天正18 | 1590 | 5 | 岩付城は豊臣勢の浅野長吉・木村一らにより陥落する |
6 | 浅野長吉は、足立郡湖巣郷大岛大炊助ら5人に在所帰住を許可する | ||
8 | 徳川家康、江戸に入る | ||
・ | 牧野康成は、武蔵国足立郡石戸領に采地5千石を賜る | ||
・ | 徳川家康が忍・川越等に放鷹のときしばしば石戸で休息する | ||
天正19 | 1591 | 10 | 石戸宿村で検地が行われる |
11 | 寿命院は、徳川家康より足立郡鴻巣郷内10石の朱印状を賜わる | ||
慶長 4 | 1599 | 3 | 石戸領主牧野讃岐守康成が没し、その子信成が跡を継ぐ |
近世(詳細はクリックしてご覧ください)
年 号 | 西 暦 | 事 項 | |
---|---|---|---|
慶長 7 | 1602 | ・ | 石戸領の検地が行われる |
慶長 8 | 1603 | 2 | 家康、征夷大将軍となる |
慶長17 | 1612 | 10 | 家康が鸿巣近辺で、狩りをする |
・ | 上中丸村を伊奈半十郎が検地する | ||
慶長18 | 1613 | 11 | 伊奈半十郎は、この年の宮内村孫右衛門分の年貢として米66石1斗2升9合と氷14貫572文を割り当てる |
慶長年中 | 1596~1615 | ・ | このころ、宮内村は上宮内村・下宮内村と私唱する また、本宿村に宿駅があったが、のちに鸿巣に移される |
・ | 市域最古の年頁割付帳がある | ||
元和 6 | 1620 | 7~8 | 下石戸上村・久保新田で検地が行われる |
8 | 新井村が牛田杢右衛門ほか5名により検地される | ||
元和 9 | 1623 | 6 | 新井村の畑方検地が行われる |
寛永 元 | 1624 | ・ | 上宫内村の一部を数原通玄が支配する |
寛永 6 | 1629 | ・ | 東間村が、会田七左衛門らにより、上下井村・上下宮内村・山中村・古市場村・上中丸村・別所村が、伊奈半十郎により、花野木村が、会田七左衛門により、検地される |
・ | 関束郡代伊奈忠治は、荒川の流路を大里郡久下村(現熊谷市)より南下するように変える | ||
寛永 8 | 1631 | 7 | 本宿村の田・畑・屋敷が検地される |
寛永16 | 1639 | 7 | 鎖国が完成する |
寛永20 | 1643 | 3 | 田畑永代売買の禁止 |
寛永年中 | 1624~1644 | ・ | 東間村は、鴻巣の内東新田と私唱し、宮内村は一村として独立する |
正保 元 | 1644 | 3 | 牧野内匠頭信成は下総国関宿城(1万7千石)を賜わり、旧地石戸領5千石は嫡男親成に与える |
正保 4 | 1647 | 11 | 牧野内匠頭信成が隠居料として、石戸の地5千石を賜わる |
正保年中 | 1644~1648 | ・ | 正保絵図に、石戸町・上石戸村の名がみえ、その付近に御茶屋跡が見える |
・ | 深井村は一村として独立し、本宿村は本鴻巣と唱えて宮崎備前守が支配する | ||
・ | 山中村・古市場村・花野木村を伊奈半十郎か支配する | ||
万治 2 | 1659 | 10 | 新井村の新畠が改められる |
寛文 2 | 1662 | 10 | 新井新田の畑方、屋敷地が検地される |
寛文 7 | 1667 | 3 | 下石戸村上分で検地が行われる |
11 | 下石戸村の畑方が検地される | ||
寛文 8 | 1668 | ・ | 石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村が牧野某により検地される |
・ | 本宿村が検地される | ||
延宝 3 | 1675 | 4 | 新井村で宗門改めが行われる |
貞享 3 | 1686 | 7 | この月の年貢納入に「綿」が見える |
元禄 3 | 1690 | 2 | この年の関東八か国御城米運質改帳に高尾川岸があり、御城米運貨3分1厘か4厘增しに改められる |
元禄 4 | 1691 | ・ | 別所村の一部と山中村を横田彦五郎が、古市場村を日下部権太夫が支配する |
元禄 6 | 1693 | ・ | 別所村の一部を阿部甚五郎か支配する |
元禄 7 | 1694 | 2 | 下中丸村・上中丸村・山中村・本宿村・下石戸村・石戸宿が桶川町助郷を勤める |
元禄 8 | 1695 | 11 | 下石戸村と新井村・高尾村との秣場争論に裁許が下される |
元禄10 | 1697 | ・ | 花野木村を前田半右衛門・岡善太郎が支配する |
元禄11 | 1698 | ・ | 上宮内村を内藤佐兵衛が、上中丸村の一部を日下部伊織か支配する |
元禄14 | 1701 | 11 | 下石戸上村で宗門改めが行われる |
元禄15 | 1702 | ・ | このころ、深井村は上・下深井村に分かれる |
・ | この年、創設の足立坂東33か所観音霊場に、中丸の観音院(11番)、古市場の常楽寺(12番)、深井の殿林山寿命院(13番)、高尾山妙音寺(16番)、荒井の千手山雙徳寺(17番)が組込まれる | ||
元禄16 | 1703 | ・ | 石戸城跡を牧野某が検地する |
11 | 関東大地震 | ||
元禄年中 | 1688~1704 | ・ | このころ、下石戸村を分割して下石戸上村・下石戸下村とされ、東間新田が東間村と呼ばれる |
・ | このころ、深井村を日下部新次郎・日下部松三郎が、下中丸村を日下部伊織・多門某が支配する | ||
享保 9 | 1724 | 9 | 桶川宿助郷(高1万1、433石)40か村のうちに、上中丸村・下中丸村・山中村・元宿村・下石戸村・石戸宿村が指名される |
享保12 | 1727 | ・ | 荒井村・高尾村・石戸宿村・石戸上村・下石戸下村5か村の入会秣埸が検地される |
享保17 | 1732 | 12 | 糠田村より悪水を流す計画が願いだされ、荒井・高尾など下流の村々が差止めの訴訟を起こす |
寛保 2 | 1742 | 8 | 関東大洪水 |
宝暦 9 | 1759 | ・ | 桶川宿定助郷44か村のうちに、石戸宿・下石戸上・下石戸下・元宿・山中・上中丸・下中丸の7か村が属す |
明和 元 | 1764 | 12 | 明和の伝馬騒動おこる |
明和 2 | 1765 | ・ | この年、川田谷村甚左衛門家襲撃事件について石戸宿ほか6か村が吟味をうける。 |
明和 5 | 1768 | ・ | 荒井村の観音堂に「酒づくり」「群馬」「雉」の大絵馬が奉納される |
天明 3 | 1783 | 9 | 浅間山噴火による降灰が荒井村ほかに見られる |
天明 7 | 1787 | ・ | 飢饉、米価騰貴、江戸・大坂などで打ちこわしがおこる |
寛政 6 | 1794 | ・ | 石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村の新田か浅岡彦四郎により検地される |
寛政 7 | 1795 | 2 | 下石戸下村は小金原の鹿狩勢子人足32人割当に対し、減員を願い出る |
享和 2 | 1802 | 8 | 備前堤への勝手上置の差止め願いが、足立郡鴻巣領24か村(含、上宮内・下宮内・古市場・上深井・下深井・山中・別所・花野木の各村)から出される |
文化 3 | 1806 | ・ | 「中山道分間延絵図」に本宿村字本宿下茶屋立場と、東間村字三軒茶屋立場の名が見える |
文化 4 | 1807 | ・ | 花ノ木村・上中丸村が日光道中杉戸宿の当分助郷を命ぜられる |
文化 8 | 1811 | 6 | 桶川宿割増賃銭が不渡りにつき、下石戸下村・元宿村・山中村・下中丸村等34か村が、下石戸上村等8か村役人を相手どった訴訟の示談が整う |
文化 9 | 1812 | 3 | 下石戸上村で博奕をしないことを村中で申し合わせる |
文化15 | 1818 | ・ | 荒井村に井岷江が芭蕉句碑を建立する |
文政 2 | 1819 | 5 | 渡辺畢山は、「玄同放言」の挿絵に蒲桜を載せるため、写生と調査に石戸宿を訪れる |
文政 7 | 1824 | 8 | 備前堤切崩出入り一件の吟味が不公平として、上郷28か村惣代源七(別所村)・邦八(花ノ木村)ほか2名が奉行所へ出訴する |
文政10 | 1827 | 6 | 備前堤高低出入りにつき、訴状が関係宿村(訴訟方として、山中・別所・古市場・花ノ木・上宮内・下宮内・深井の各村が含まれる)から評定所へ出される |
天保 2 | 1831 | 7 | 寺子屋師匠大島耕運の頌徳碑が建立される |
12 | 元宿村で11月中火災で類焼した15人が馬喰町御貸付金より30両拝借する | ||
天保 3 | 1832 | ・ | 天保の飢健始まる |
天保11 | 1840 | 12 | 前月に発生した本宿村の火災につき、類焼者15人が借用した金30両の向う3年間返済延期を地頭所へ願い出る |
天保12 | 1841 | 5 | 天保の改革始まる |
弘化 2 | 1845 | 4 | 城ケ谷堤玖樋の伏替が行われ関係5か村への勘定割合が行われる |
嘉永 元 | 1848 | 12 | 鹿狩りにつき本宿村ほか13か村に、164名が割り当てられる |
嘉永 4 | 1851 | ・ | 石戸宿村の榎堂に、芭蕉句碑が建てられる |
嘉永 6 | 1853 | 6 | ペリー、浦賀沖に来航 |
8 | 宮地堰用悪水組合1宿23か村(含上下深井村・上下宮内村・別所村・古市場村・山中村・花ノ木村)から出された御定掛場同様の藻刈願いが却下される | ||
11 | 異国船渡来防備御用金が下石戸上村他の村々に割り当てられる | ||
安政 2 | 1855 | 3 | 紅花自由売買の歎願書が、足立郡埼玉郡38か村から出される(含上中丸・山中・本宿・下石戸上・下石戸下・石戸宿の各村) |
安政 6 | 1859 | ・ | 備前堤切崩し出入り訴訟につき、下郷が争う(含花ノ木・上下宮内・山中・別所・古市場・深井の各村) |
文久 元 | 1861 | 4 | 和宮下向に際し中山道本宿村往還家並絵図が作られる |
11 | 和宮下向につき道中奉行より本庄宿より桶川宿までの各宿駅と助郷村々に街道警備触れ書きがでる | ||
文久 3 | 1863 | 7 | 異国軍艦渡来につき、御地頭所に夫人足勤入用が割合わされる |
8 | 下石戸上村名主徳太郎が、桶川宿寄場組合の大惣代に推される | ||
岩治 元 | 1864 | 7 | 蛤御門の変 |
慶応 2 | 1866 | 7 | 打毀し一件逮捕者取調諸入用につき、廻状が大惣代の深井村他5か村へ出される |
慶応 3 | 1867 | 4 | 鴻巣宿八百屋から、再度さつま芋問屋新規取立ての申し入れがある |
7 | 東間・上下中丸・山中・本宿・下石戸上下他2か村の村々では、さつま芋の不出荷を決め、鸿巣宿入口に近い中山道・岩槻往還の2か所へ見張りを出す | ||
10 | 将軍慶喜、大政を奉還 | ||
慶応 4 | 1868 | 3 | 神仏混淆を禁止する |
4 | 東海道総督府(会計方)は、鴻巣宿組合村々へ高百石につき白米3俵、金3両宛の納入を命ずる | ||
4 | 荒井村組頭新蔵宅、同村久兵衛宅へ盗賊が侵入し、それぞれ被害届が出される | ||
6 | 忍藩士山田一太夫が、武蔵知県事に任ぜられる |
近代(詳細はクリックしてご覧ください)
年 号 | 西 暦 | 事 項 | |
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明治 元 | 1868 | 4 | 江戸城関城 |
10 | 下宮内村大乗院住職が知県事宛に、神職復飾を願い出る | ||
・ | このころ、上・下深井村が合併し深井村に、上・下宮内村が合併し宮内村になる | ||
・ | 市域の村々は武蔵知県事の管轄となる | ||
明治 2 | 1869 | 1 | 武蔵知県事山田一太夫に代わり、弁事出仕宮原中務が知県事に任ぜられる |
1 | 大宮県が設置され、市域の村々は大宮県の管轄となる | ||
9 | 大宮県が浦和県と改称される | ||
明治 4 | 1871 | 2 | このころ、軍兵の移動を背景に打ちこわしや百姓一揆が多発し、鸿巣・桶川周辺でもおよそ170か所で放火、打ちこわしがあった |
7 | 廃藩置県 | ||
11 | 浦和県が廃止され、市域の村々は埼玉県の管轄となる | ||
11 | 乘合馬車会社広連社が中山道の東京万世橋~高崎間で営業を始める | ||
明治 5 | 1872 | 3 | 壬申戸籍作成 |
4 | 庄屋・名主・年寄等の称を廃止し、正副戸長を置く | ||
8 | 学制発布 | ||
9 | 中山道の熊谷~大宮間に郵便馬車が開通する | ||
12 | 太陽曆採用 | ||
明治 6 | 1873 | 1 | 県は飛脚制度を全廃し、官営の郵便制度を実施する |
1 | 道路の幅員を制定し、中山道6間、脇往還4間、村往還2間を原則とする | ||
1 | 石戸宿・下石戸上・下石戸下・本宿・上日出谷の各村を通学区として石戸学校を設立し、校舎は大蔵寺を使用する | ||
1 | 高尾・荒井・原馬室・滝馬室の各村を通学区として高尾学校を設立し、校舎は泉蔵院を使用する | ||
1 | 東問・深井・宮内・市場・常光別所の各村を通学区として宮内学校を設立し、校舎は常福寺を使用する | ||
明治 7 | 1874 | ・ | 本宿・山中・上下中丸・花ノ木の各村を通学区として中丸学校を設立し、校舎は遍照寺を使用する |
明治 8 | 1875 | 1 | 市域初の合併が行われ「中丸村」誕生 |
・ | このころ換金性の強い商品作物(サツマイモ・人参・サトイモ・藍葉など)が栽培される | ||
明治10 | 1877 | 8 | 東京~新潟間の電信開通のため、中山道に電柱を架設する |
明治11 | 1878 | 7 | 郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則(三新法)公布 |
明治14 | 1881 | 3 | 上生出塚・下生出塚・深井村の3か村戸長役場組合から深井村が分離する |
7 | 「郡区町村編制法」により戸長選挙が行われ、荒井村では矢部長作が、東間・宮内村では松村源兵衛が選出される | ||
明治15 | 1882 | ・ | 石戸宿村を通学区として西石学校が石戸学校より分離独立し、校舎は放光寺を使用する |
明治16 | 1883 | 1 | 桶川郵便局の管轄下だった石戸村内4か所に郵便差出所が設置される |
7 | 日本鉄道第一区線上野一熊谷間が完成し、上尾・鴻巣ほか4駅が営業を開始する | ||
明治17 | 1884 | 7 | 連合戸長制の実施による官選戸長に、束間村連合矢部長作、上日出谷村連合・吉田徳太郎、原馬室村連合・斉藤竹次郎が任命される |
10 | 秩父事件がおこる | ||
明治18 | 1885 | 7 | 東北本線大宮、宇都宮間開通 |
明治20 | 1887 | 3 | 宮内学校・中丸学校・梅林学校の3校を合併して、古市場村に山中学校を設立する |
明治22 | 1889 | 4 | 市制町村制が施行され、石戸村と中丸村が成立する 合併時の人口は石戸村3、842人、中丸村2、884人 |
明治23 | 1890 | 11 | 第1回帝国議会開催 |
明治25 | 1892 | 8 | 山中学校を中丸尋常小学校と改称する |
明治27 | 1894 | 4 | 日清戦争始まる |
明治33 | 1900 | ・ | 石戸村に赤痢の隔離病舎が建設される |
明治35 | 1902 | 2 | 元荒川から引水した谷田用水の使用の約定書が、関係者(鴻巣町・常光村・中丸村)惣代から中丸村長宛に提出される |
明治37 | 1904 | ・ | 日露戦争応召者(石戸村116名、中丸村59名) |
明治39 | 1906 | 11 | 石戸村青年会が第1回壮丁教育を実施する |
明治40 | 1907 | 4 | 中丸村青年会が設立される |
明治41 | 1908 | 12 | 石戸村の3つの小学校を統合して石戸尋常高等小学校と改称し、併せて高等科に農業科を加設する |
明治43 | 1910 | 6 | 石戸村が地方改良事業に関して、北足立郡の模範町村として内務省に具申される |
明治44年 | 1911 | 7 | 中丸村信用販売購買組合か設立される |
10 | 行田電灯会社が認可を受け中丸村にも配電する | ||
明治45 | 1912 | 1 | 石戸小学校で「石戸村郷土誌」が編さんされる |
大正 3 | 1914 | 6 | 高崎線桶川~鴻巣間の中丸村大字北本宿に信号所設置の計画がほぼ決定する |
7 | 第1次世界大戦始まる | ||
大正 6 | 1917 | 4 | 中九村・加納村・常光村連合耕地整理組合が設立され、耕地整理を始める |
・ | 本宿信号所が設置される | ||
大正 7 | 1918 | 7 | 米騒動おこる |
大正 9 | 1920 | 10 | 1回国勢調査か実施される(石戸・中丸両村合計7、633人) |
大正11 | 1922 | 4 | 中丸村大字宮内五戸組合矯風会申合規約が定められる |
4 | 埼玉県水平社が全国2番目に設立され、夏には北本の神社でも300余名を集めた講演会が行われる | ||
10 | 石戸宿東光寺の蒲桜が天然記念物として国の指定を受ける | ||
大正12 | 1923 | 9 | 高崎線の下石戸下信号所で震災避雌者を満載した列車が脱線転覆事故を起こす |
9 | 下石戸下ニッ家地内に関東大震災救護所を設ける | ||
大正14 | 1925 | 10 | 国第調査か行われる(石戸・中丸両村人口計7、686人) |
大正15 | 1926 | 7 | 村立青年訓練所が石戸・中丸両村に設立される |
現代(詳細はクリックしてご覧ください)
年 号 | 西 暦 | 事 項 | |
---|---|---|---|
昭和 2 | 1927 | 1 | 本宿信号所を駅に変更する旨の請願書を提出 |
3 | 金融恐慌おこる | ||
6 | 石戸村農友会長田岛忠夫・副会長小島業三郎の奔走の結果、石戸トマトクリー厶販売組合が設立される | ||
昭和 3 | 1928 | 8 | 駅の設置場所をめぐる激しい争奪戦の結果、その位置は北部に決定し、北本宿駅が営業を開始する 初代駅長河合豊作 |
昭和 5 | 1930 | 1 | 高崎線が複線化し開通する |
昭和 8 | 1933 | 3 | 荒井橋が開通する |
昭和 9 | 1934 | 3 | 北本宿耕地整理組合による耕地整理事業が完成する |
4 | 中丸村郵便取扱所が開設される | ||
10 | 国勢調査が行われる(石戸・中丸両村人口計8、145人) | ||
・ | 石戸村立公民学校・青年訓練所が廃止され、石戸村立青年学校が開設される | ||
昭和11 | 1936 | 10 | 谷田用水路の掘さくが完了する |
昭和12 | 1937 | 11 | 中丸郵便取扱所内で電話通話業務を開始する |
昭和16 | 1941 | 3 | 北本宿多聞寺のムクロジが県の天然記念物に指定される |
4 | 石戸宿束光寺の板石塔婆が国の重要美術品の認定を受かる | ||
4 | 石戸・中丸両尋常高等小学校は、それぞれ国民学校に改称する | ||
12 | 太平洋戦争始まる | ||
昭和17 | 1942 | 6 | 井野農相と県知事が石戸・中丸の大麦脱穀と、農繁託児所を視察する |
12 | 村議会で石戸村・中丸村合併に関し、県知事への上申を議決する | ||
昭和18 | 1943 | 2 | 石戸村と中丸村を合併して北本宿村とする |
3 | 中丸郵便扱所が北本宿郵便局となる | ||
昭和19 | 1944 | 5 | 埼玉銀行北本宿支店が設立される |
8 | 多聞寺・寿命院に束京の久松国民学校の児童が集団疎開する | ||
昭和20 | 1945 | 6 | 本土決戦に備えて石戸・中丸両校に軍隊が駐屯したため二部授業となる |
8 | ポツダム宣言受諾、終戦 | ||
昭和22 | 1947 | 4 | 六三制教育制度が実施される |
5 | 日本国憲法・地方自治法施行 | ||
9 | キャスリン台風により北本宿村で死者1名、浸水9戸、田畑の冠水117.6町歩の被害がでる | ||
昭和23 | 1948 | 4 | 国鉄大宮~高崎間の電化事業が着工される |
6 | 石戸・中丸両農業協同組合が設立される | ||
昭和24 | 1949 | 5 | 石戸小学校で学校給食(副食)が開始される |
8 | 北本宿巡査部長派出所が設置され、北本宿村・加納村・川田谷村を管轄する | ||
昭和25 | 1950 | 4 | 石戸・中丸両中学校を統合し、北本宿中学校とする |
4 | 国勢調査が行われる(人口13、457人) | ||
昭和26 | 1951 | 9 | サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約調印 |
昭和27 | 1952 | 4 | 中丸小学校に給食場が完成する |
7 | 高崎線が電化され、電気機関車が走る | ||
10 | 北本宿村教育委員会委員選挙か行われ、無投票で4名が当選する | ||
昭和28 | 1953 | 5 | 北本宿村婦人会が発足する |
9 | 村の全域が都市計画法の指定を受ける | ||
昭和29 | 1954 | 6 | 高崎線電車化促進に関する要請書を提出する。 |
昭和30 | 1955 | 4 | 北本宿村工場設置獎励条例が制定される |
昭和31 | 1956 | 10 | 高崎線に湘南型電車が走る |
昭和32 | 1957 | 4 | 北本宿村中央公民館が設立される |
・ | 北本宿村文化財保護条例が制定される | ||
・ | 埼玉県信用金庫北本支店が開設される | ||
昭和34 | 1959 | 2 | 北本宿商店会が発足する |
4 | 農林省関東束山農事試験場畑作部が荒井に設置される | ||
11 | 町制施行により北本町成立する | ||
昭和35 | 1960 | 4 | 三笠宮妃殿下が、愛育班活動視察のため来町される |
昭和36 | 1961 | 2 | 北本町商工会が設立される |
4 | 工場設置奨励条例が廃止され、新たに北本町工場誘致委員会条例が公布される | ||
昭和37 | 1962 | 5 | 大宮~鴻巣間国道17号線が開通する |
昭和38 | 1963 | 3 | 国道17号線の人道橋架設落成式が中丸小学校で行われる |
4 | 現在地に町役場庁舎が完成する | ||
8 | 08 北本巡査部長派出所が完成する | ||
10 | 桶川・北本水道組合が発足する | ||
昭和39 | 1964 | 3 | 高尾の荒川河岸で丸木舟の発掘調査が行われる |
3 | 石戸・中丸両農業協同組合が合併し、北本町農業協同組合が発足する | ||
7 | 北本町・鴻巣市・吹上町・菖蒲町・川里村で北本地区衛生組合を設立する | ||
10 | オリンピック束京大全の聖火が町内を通過する | ||
昭和40 | 1965 | 3 | 北本総合処理場建設工場の起工式が常光別所地内で行われる |
8 | 町章が制定される | ||
11 | 交通安全対策協議会が発足する | ||
昭和41 | 1966 | 3 | ダイヤル式自動電話となる |
9 | 県下で初めての農村集団自動電話が石戸・中丸両地区で開通する | ||
10 | 都市ガスを供給する新日本ガス株式会社が操業を開始する | ||
12 | 上水道の供給が始まる | ||
昭和42 | 1967 | 4 | 南小学校が開校する |
昭和43 | 1968 | 8 | 北本橋上駅舎並びに駅前広場建設促進期成会が発足する |
昭和44 | 1969 | 11 | 日本住宅公団北本団地の造成か始まる |
昭和45 | 1970 | 8 | 新都市計画法により、市街化区域と市街化調整区域の線引きが行われる |
9 | 北本町外13市町村で、埼玉県中央広域行政推進協議会が発足する | ||
9 | 国勢調査が実施される(人口31、699人) | ||
昭和46 | 1971 | 4 | 北本町総合振興計画が策定される |
9 | 日本住宅公団北本団地の第一次入居が始まる | ||
9 | 北本駅構内の跨線人道橋が完成する | ||
10 | 北本駅~北本団地間の循環バスが開通する | ||
10 | 栄小学校が開校する | ||
11 | 市制施行により、北本町を北本市とする 初代市長斎藤隆 | ||
昭和47 | 1972 | 2 | 同和問題の解決を図るため、同和対策審議会を設置する |
4 | 東中学校が開校する | ||
4 | 北小学校が開校する | ||
7 | 市制施行記念の「北本音頭」の作詞ができあがる | ||
昭和48 | 1973 | 2 | 救急業務が消防庁舎完成に併せ業務を開始する |
2 | 荒井橋附近の荒川の流路変更工事が完成する | ||
4 | 西小学校が開校する | ||
7 | 零歳児の医療費が無料化となる | ||
昭和49 | 1974 | 3 | 同対法促進・部落差別解消市民大会が開かれる |
5 | 県知事が子ども公園施設の視察のため訪れる | ||
8 | 市立図書館(旧北本郵便局跡)が開館する | ||
昭和50 | 1975 | 4 | 北本駅西口広場が完成する |
昭和51 | 1976 | 4 | 東小学校が開校する |
4 | 消防署東分署か開署する | ||
昭和52 | 1977 | 2 | ごみの広域的処理のため、埼玉中部環境保全組合を鴻巣市・吉見町・北本市によって設立する |
2 | 大型店舗出店対策指導要網を制定する | ||
5 | 成人病検診センター内に夜間救急診療所が開設される | ||
9 | 北本駅橋上駅舎が完成する | ||
11 | 市の木にサクラ、市の花にキクを制定する | ||
昭和53 | 1978 | 4 | 西中学校が開校する |
4 | 市史編さん事業が始まる | ||
10 | 市内全域の環境美化運動がスタートする | ||
12 | 老人福祉センターが開所する | ||
昭和54 | 1979 | 2 | 北本市の人口が5万人となる |
3 | 勤労福祉センターと保健センターの複合施設が開所する | ||
3 | 北本市総合振興計画基本構想が策定され、「緑に囲まれた健康な文化都市」の実現がめざされる | ||
6 | 防災行政無線がスタートする | ||
7 | 北本市コミュニティづくり推進協議会が発足する | ||
12 | 農事試験場の筑波移転が完了する | ||
昭和55 | 1980 | 3 | 北本中学校校舎が鉄筋化される |
10 | 廃棄物の资源回収(リサイクル)事業がスタートする | ||
昭和56 | 1981 | 4 | 公共下水道が一部地域で供用開始となる |
6 | 学校生徒の完全給食をセンター方式で実施する | ||
11 | 北本市民憲章が制定される | ||
11 | 社会福祉法人・北本市社会福祉協議会が設立される | ||
11 | 自然遊歩道がオープンする | ||
12 | 県道下石戸上菖蒲線の一部(高崎線との立体交差)が完成する | ||
12 | 議会議員の定数を減少し、30人とする | ||
昭和57 | 1982 | 4 | 宮内中学校が開校する |
5 | 荒井橋が永久橋として開通する | ||
昭和58 | 1983 | 1 | はしご付消防ポンプ自動車が配備される |
4 | 吉見町に建設中の埼玉中部璟境保全組合(北本市・鴻巣市・吉見町で構成)の清掃工場が完成し、業務を開始する | ||
昭和59 | 1984 | 1 | 北本市高齢者事業団か設立される |
4 | 北本市文化センターとして、中央公民館・市立中央図書館の複合施設が完成する | ||
5 | 市内を八圏域に分けた地域コミュニティ委員会の組織づくりが始まる | ||
9 | 東小学校が学校給食の運営・指導等に対し文部大臣表彰を受ける | ||
昭和60 | 1985 | 7 | 行政改革推進委員会を設置する |
11 | 北本市行財政改革大綱を策定する | ||
昭和61 | 1986 | 2 | 第2次北本市総合振興計画を議決する |
6 | 北本市と鴻巣市が図書館の相互利用について協定する | ||
昭和62 | 1987 | 3 | 北本市史第4巻「近世資料編」を刊行する |
6 | 人口が6万人となる | ||
昭和63 | 1988 | 6 | 老人福祉センターが鸿巣市と相互利用を開始する |
8 | 市役所駅連絡所を闔設する | ||
平成 元 | 1989 | 4 | 文部省から生涯学習モデル市に指定される |
4 | 北里研究所メディカルセンター病院が開院する | ||
5 | 常陸宮御夫妻が北本自然観察公園予定地で記念放鳥と植樹をされる | ||
7 | 青少年育成市民会議が設立される | ||
9 | ふるさと創生一億円で「さくらと歴史の郷づくり事業」を決定する | ||
11 | 中央公民館が全国優良公民館表彰を受ける | ||
平成 2 | 990 | 3 | 第1回生涯学習市民大会が開催される |
3 | 公共の場所における自転車放置防止条例を設ける | ||
9 | AET (英語指導助手)を採用し、小中学校の国際理解教育の推進と英語教育の充実を図る | ||
9 | 高齢者事業団を改称し、社団法人シルバー人材センターを設立する | ||
12 | 議会議員の定数(法定数36人)を減少し、28人とする | ||
平成 3 | 1991 | 3 | 桶川市・北本市・鸿巣市・吹上町・川里村の五市町村は、埼玉県央都市づくり協議会を設け、構想、基本計画、県央アクシスプランを策定する |
4 | 駅周辺の放置自転車対策として、自転車駐車場が順次利用開始となる | ||
6 | 市役所の月2回、土曜閉庁が始まる | ||
6 | 体育センターがオープンする | ||
10 | 福島県河沼郡会津坂下町と姉妹都市の提携をする | ||
12 | 情報公開条例及び個人情報保護条例を制定する | ||
平成 4 | 1992 | 3 | J Rのダイヤ改正により、北本駅に快速アーバンが停車する |
3 | 名誉市民条例を制定する | ||
7 | 埼玉県自然学習センターがオープンする | ||
7 | 総合福祉センターがオープンする | ||
9 | 学校週5日制が始まり、市内小中学校は毎月第2土曜が休みとなる | ||
平成 5 | 1993 | 2 | 県知事が行政視察のため来市し、北本中央緑地の雑木林や総合福祉センターなどを見てまわる |
3 | 女性行動計画の策定及び女性政策の推進のため、女性会議を設ける | ||
4 | 中丸東小学校が關校する | ||
6 | 総合公園の野球場が完成する | ||
平成 6 | 1994 | 4 | 北本市まちづくり条例を施行する |
6 | 埼玉県央都市づくり協議会が59の公共施設の相互利用を始める | ||
6 | 北本市健康増進センターがオープンする | ||
8 | 人口が7万人となる | ||
10 | 24時間の市政悄報テレホンガイドが開始される | ||
平成 7 | 1995 | 2 | 阪神・淡路大震災支援のため、市内公共施設に義援金箱を設置する |
4 | 北本市学習センターがオープンする | ||
4 | 消防業務と火葬場・葬祭場の業務を共同処理する埼玉県央広域事務組合がスタートする(全部発足 平成8。4。1) | ||
5 | 阪神・淡路大震災の義援金募金総額が2、116万4、291円となる | ||
5 | 北本駅東口~富士重工業間連行のバス路線3系統が開設される | ||
5 | 第46回埼玉県植樹祭が、北本総合公園で行われる | ||
6 | 高尾大宮公園(仮称)が完成し、名称を「高尾さくら公園」と決める | ||
6 | 北本観光協会が発足する |