北本の絵馬

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【祖師堂】

祖師堂

八幡社御神体

山中の八幡様は、古くこの地にあった八幡社を地域の人びとが信仰していたのであろう。今でも八幡様と呼んでいるが、現在では八幡様と思われる小社は、片隅の一坪ほどの場所にあり、正面には、日蓮宗の祖師堂が建立されている。この祖師堂は、明治15年に建てられたものだという。11月22日が御会式の日であるが、当時東京から高崎方面にかけていくつもの講社が結成されたという。当日は、講中や個人的信者の参詣などで、百人にもあまる人たちが集まり、大変にぎわったという。
奉納された35, 6枚におよぶ絵馬は、すべてこの祖師堂におさめられている。絵馬の図柄からみても、八幡信仰と日蓮信仰の両者に関係するものが多く奉納されている。
祖師堂のかたわらには、山王社も祀られてあり、多くの石猿が奉納されている。


祖師堂 絵馬奉納情景

石橋山大合戦 八幡社蔵 (55㎝×95㎝)

八幡神は、庶民の神の性格を濃く宿してはいるが、応神天皇が祀られ、また頼朝が源氏の氏神武門の守護神として鎌倉の地に勧請するようになると、 弓矢の神としての信仰が流布されるようになっていった。
絵馬は、挙兵の頼朝が石橋山の合戦に敗れ、大木の空洞にひそんで難をまぬかれる図柄である。右上には、”大合戦”と題し、「……弓矢八幡宮を念じ、危難を遁れ……」と記されている。明治18年10月奉納されたもので、願主は、高尾村の井上某二氏である。銘記的な絵馬であろうが、あるいは某二氏みずからの願いがこめられたものであるかもしれない。

加藤清正 八幡社蔵 (95㎝×78㎝)

加藤清正は、熱心な日蓮宗の信者であった。朝鮮出兵の折「南無妙法蓮華経」の旗を押し立てて戦ったのも、足軽の具足に「南無妙法蓮華経」の題目を記載したのもそのあらわれであろう。
絵馬は、祖師堂の正面にかかげられてある。願主は、鴻巣町人形町、小松屋斎藤某氏が、明治39年5月奉納したものである斎藤某氏は、日蓮宗の信者であったかもしれない。そしてまた、絵馬の奉納が5月吉日とあるところから、あるいは人形師であったかもしれない。商売繁盛を祈願して奉納したものとも考えられるものである。


日蓮宗御題目千遍書写 八幡社蔵 (38㎝×48㎝)

日蓮宗御題目千遍書写、奉納の絵馬である。御題目は、5巻の巻物に書いてあり、各巻とも板額に結びつけられている。各巻の冒頭に記されているように、病気平癒を祈願して奉納した絵馬である。御題目千遍書写に、願主の切実な祈り、熱烈な信仰がうかがえるものである。一種の文字絵馬ともみることができるが、めずらしい絵馬である。絵馬は、明治23年8月、北足立郡常光村の上田某氏の奉納したもので、「奉納八幡大菩薩御題目、千遍書写病気平癒心願成就」再拝、再拝と記されている。

大願成就 八幡社蔵 (27㎝×35㎝)

文字絵馬には、祈願の内容を簡単明瞭に文字に表現したものと、いわゆる「大願成就」などと記されてあり、その内容については定かでないものとがある。この絵馬は、金文字で大願成就と書いてあるび、祖師堂が明治初期に建立されたことから考えれば、願主は、あるいは日蓮宗の信徒であったとも思われ、一筋の願いや望みを金文字に託したものとも思われる。明治44年、鴻巣町の肥留川某氏が奉納したものである。

拝み (貴族) 八幡社蔵 (48㎝×69㎝)

拝み絵馬の一種ともみられるものである。衣冠束帯の貴族が願文を開き祈願する姿に、神の啓示として一条の光明が描かれている。願文の文字は、始定壊天本宗初之適……水流天命公百雄星流などと記してあり意味不明であるが、八幡社に奉納されたことから考えれば、それは、一家の繁栄、村々、地域の平和安泰の祈願ではなかったかと思われる。そして、ひいては豊作の願いにもつながるものであった。明治23年8月、小林村、原某氏の奉納によるものである。

拝み (男) 八幡社蔵 (47㎝×65㎝)

男の拝み絵馬であるが、左上に八幡社の表象として弓矢をたずさえた貴族が馬にまたがり、瑞雲に乗って描かれている。右上の赤い幔幕は、神の加護によって一人前の男子になることができましたというお礼のしるしであろうか。
明治19年3月、北足立郡倉田村の大熊某氏の奉納したものである。

拝み (兵士) 八幡社蔵 (38㎝×45㎝)

奉納八幡大神と書かれた絵馬は、その図柄から兵士の奉納した絵馬ともみられるが、願主は、その妻とも思われる北足立郡箕田村の森田某女が、明治40年正月吉日に奉納したものである。奉納年月日や、図柄の幔幕、吹流し、軍旗、また松の木に待ち望んだ夫の除隊、または、凱施の喜びがにじんでいるようである。そのお礼に奉納したものと思われる。

拝み (女) 八幡社蔵 (25㎝×37㎝)

女の拝み絵馬であるが、左上の瑞雲と御幣が、八幡神の啓示として描かれている。明治31年1月11日に高尾村の鯨井某女が奉納したものである。蔵開きの日に奉納した某女の願いは、なんであったろうか。あるいは、子供をお授けくださいとの祈りであったかもしれない。

拝み (女) 八幡社蔵 (25㎝×36㎝)

拝み (女) 八幡社蔵 (36㎝×46㎝)

女の拝み絵馬であるが、髪の形や黒の羽織、また松の木などから、待ちこがれる子供を早くお授けください、という願いのように思われる。この絵馬は、板片また紙片に描いたものをガラス入りの額に入れたもので市内には7,8枚みられる。明治以降の洋風化の影響が、一時期、このようなガラス入り額縁絵馬を流行させたのであろう。

拝み (家族) 八幡社蔵 (36㎝×48㎝)

拝み (父子) 八幡社蔵 (36㎝×51㎝)

夫婦、子供の拝み絵馬で、八幡社の社殿幟、そして中央に家族3人が描かれている。子供は、よく「七つうちまで神のうち」「七つ坊主」などといわれているように、7オまでは神の被護のもとにあり、また頭をそって無病息災を祈願した。願主は小室村の山□某夫妻である。
他の絵馬も父子の拝み絵馬であるが、左上に瑞雲に乗った武神が描かれている。立派な強い男子として成長するよう祈願したものであろう。明治20年1月、大間村の奈良某氏が奉納したもので、絵は正霊の描いたものである。


五重の塔 (古銭) 八幡社蔵 (70㎝×34㎝)

古銭を板額に170枚ほどあしらい、五重の塔に組み立てた古銭絵馬ともいえるものである。このような絵馬は県内各地に散在して見られ、古銭をあしらったところから、一般的には商売繁盛の願いとも思われる。しかし、形には宝珠や鳥居刀など種々のものがあるので、やはりその図柄によって祈願の内容には、差異があったであろう。五重の塔の絵馬は、明治27年10月、上州高崎の井上某氏が奉納したものである。この頃、祖師堂のにぎわいは、全盛をきわめていたのであろう。五重の塔の図柄からも、奉納者は熱心な信徒であったろうと思われる。

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