岩槻道
北本市の地図を見ると、東の方に、朝日から、古市場、宮内とつづき、一七号バイパスにぶつかる道がみつかるでしょう。この道は北に進んで鴻巣市につながっています。一方、朝日から南東の方向をたどっていくと
岩槻市に着きます。これが
岩槻道です。
この岩槻と鴻巣をむすぶ道は、かつては岩槻の人たち、北本の人たち、鴻巣の人たちなどがさかんに行き
来した道でした。今は、うら道のような感じになってしまいましたが、むかしはとても活気にみちた道でした。
戦国時代、岩槻には
太田氏が
城をきずき、北本から鴻巣の方まで
支配していました。
岩槻城主の
太田資頼が
家臣のうらぎりで
北条氏とのたたかいにやぶれ、
石戸城ににげたときにはこの道を通ったものと思われます。また、太田氏の家臣で、岩槻道ぞいの村々を支配した「
鴻巣七騎」とよばれた
武士 たちも、この道を馬でかけぬけたことでしょう。
江戸時代になると、
岩槻の
城下は商業都市として
発展し、
明治時代になってもまわりの町や村の商業の中心地でした。そのため、
岩槻道はたくさんの人びとの行き
来でにぎわいました。
たとえば、北本がサツマイモの
大産地 になると、ひりょうとしてたくさんのわら
灰がひつようになりました。すると、岩槻の灰をあつかう
問屋が岩槻道を通って注文を取りにきました。
岩槻のまゆをあつかう商人は、使用人に何台もの荷車を引かせ、北本を通り、
埼玉県北部の
養蚕地域へ買いつけに行きました。大金をどうまきの中へ入れ、ピストルを持っていたといいます。
いっぽう岩槻のハスが、荷車で北本を通り鴻巣へ、鴻巣からは鉄道で北の方へ売られていきました。
また、この道を歩いて、岩槻へお
嫁入りした人もいたそうです。そして、今でも岩槻 へ向かうもっとも近い道として
利用されています。
注
(1)戦国時代………
応仁の
乱(一四六七年)から
室町幕府がほろびるまで(一五七三年) の一〇〇年あまりをいう。ただし、
関東では
北条早雲が
足利茶々丸を
殺した
延徳三年(一四九一)から北条氏の
滅びた天正十八年(一五九〇)までをいう。
(2)どうまき………旅などの時、お金を入れてはらにまく細長いふくろ。