デーノタメ遺跡 調査の契機と経過

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第1章 調査の契機と経過

第1節 調査の契機

デーノタメ遺跡は昭和44年ごろ、当時の北本町内で実施された埋蔵文化財包蔵地の分布調査において発見された遺跡である。遺跡は大宮台地を開析する江川上流の支流に位置しており、昭和44年に日本住宅供給公社による北本団地が造成されるまでは、遺跡の低地部に「デーノタメ」(1)と呼称される湧水起源の溜池が存在していた(第1図・写真2)。デーノタメ遺跡はこの「デーノタメ」の周囲に展開しており、分布調査を担当した吉川國男氏は「ここの立地環境で特筆しなければならないことは、ここにはきわめて強力で豊富な地下水の湧出があることである。一年じゅう台脚下から水音をたてて噴出している湧水である」(吉川 1972)と紹介し、遺跡における「デーノタメ」の重要性にちなんで溜池の呼称を遺跡名としたのである。

第1図 元禄10年の絵図に描かれたデーノタメ

指定当時のデーノタメ遺跡は溜池南側の沖積面に位置するデーノタメⅠ遺跡と、南東部の台地上に位置するデーノタメⅡ遺跡の2遺跡が認識されており、前者では土師器を伴う古墳時代の遺物包含層、後者では縄文時代の後期(堀之内期)を中心とする集落跡の存在が想定されていた。ところが昭和63年、デーノタメⅠ遺跡内においてムロ穴を掘削した際、縄文時代中期の勝坂式土器がまとまって出土したことから、にわかに縄文時代中期の集落跡の存在が注目されるようになった(下村1990)。
その後、市教育委員会は平成9年度に国庫補助事業として実施した市内埋蔵文化財包蔵地の詳細分布調査の成果により、デーノタメ遺跡Ⅰ・Ⅱ及び榎戸Ⅲ遺跡を「デーノタメ遺跡」(No.16-039)として統合し、さらに範囲を拡大して現在に至っている。
一方、北本市は都市近郊の住宅都市として人口が増加し、本遺跡の周辺では小規模な宅地開発によってスプロール的な市街地の形成が進むことが懸念されていた。こうした中、市では道路・公園・その他公共施設の整備改善を行い、良好な市街地の形成を目指し、44haと大規模な「久保特定土地区画整理事業」(平成9年2月認可)が計画されたのである。
この区画整理事業地の北西部にはデーノタメ遺跡が所在しており、とくに遺跡内には広域幹線の都市計画道路「西仲通線」及び「南2号線」が交差し、約7,200㎡の遊水地が計画されるなど、当該区画整理の重要施設が集約するエリアとして計画されていた。

写真2 昭和44年頃のデーノタメ付近(吉川國男氏提供)

このため、市教育委員会では久保土地区画整理事務所の依頼を受け、平成10年度の区画整理地内の西側街区部分を中心とする遺跡の範囲確認調査を皮切りに、埋蔵文化財の調査に着手したのである。

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