デーノタメ遺跡 結語

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第5章 結語

第1節 遺跡の構造と集落の展開

はじめに
デーノタメ遺跡の集落展開は大きく二つの時期に区分され、両時期の集落は互いに隣接して遺されていた。その一つは遺跡の南西部を占地する縄文時代中期にかかる集落であり、もう一つが遺跡の北東部に広がる同後期の集落である(第33図)。
中期集落は勝坂3期を下限として加曾利EⅢ期に至るまで継続される環状集落である。また、後期集落は堀之内Ⅰ期から加曾利B1期まで続き、地形に規制されるように孤状の展開を見せている。この間の時期についていえば、中期末葉には集落が極端に縮小し、後期初頭における一時期は谷を隔てた南部の高台に移動することが確認されている。(1)ただしそれはわずかな期間に限られ、デーノタメ遺跡では約1,200年にわたって継続的に集落が営まれていたといえる。併せて中・後期とも集落規模が大きく、それぞれが拠点集落として位置づけられると考える。このことはデーノタメ遺跡の特徴として大きく評価される。

1 デーノタメ遺跡の集落変遷
デーノタメ遺跡は現段階で勝坂3期~加曾利B1期までの7期に区分される遺構、遺物群が検出されている。遺構の出現期である勝坂期の住居群は環状集落の南東部及び北西部に偏り分布する。ちょうど小集落群が中央広場を挟んで対峙するような形態である。加曾利EⅠ期になると住居の数は増え、ほぼ全域に遺構の分布がみられるようになる。この時点で環状集落の形態が完成すると考えられる。次の加曾利EⅡ期では住居群が減少し、集落の外縁部に住居が造られるようになる。加曾利EⅢ期では住居の数が激減する。現時点では住居跡の確認は1軒のみである。これとは別に遺物を伴う大型の土坑が南部に散布する様子が窺える。続く加曾利EⅣ期~称名寺期の住居群は遺跡内から確認されていない。(2)
後期になると中期の集落範囲を離れ、堀之内Ⅰ、Ⅱ期の遺構群は遺跡北東部の低地部に沿った台地上に占地する。全体的には湾入する低地部を取り囲むように帯状に展開する。加曾利B1期になるとこの集落の西端部から連続するように遺構群が出現し、一部は中期環状集落の中央広場へ回帰をみせている。

2 縄文中期の集落構造
中期の集落は遺跡の北側に広がる低地部に突出する舌状台地上に展開する。台地と低地の比高差はおよそ4mと小さく、集落は台地が低地部に至る直前の斜面部まで広がっている。住居跡群はこの北向きの斜面部に比較的密集し、中央部に約70m×55mの広場空間を設ける。東西部分でも同様に住居群は濃密に分布するが、中央広場を隔てた南部では密度が疎となる。
なお、中央広場における遺構の検出は少ない。ただし、内容確認調査において中央広場にわずかであるが縄文時代中期の遺物を包含するピット群や土坑状の遺構が確認されている。これが墓壙や掘立柱建物群などの性格を有するものであるか、今後の精査が待たれる。また、土器の廃棄遺構については広場の一部で検出されているが、環状集落の縁辺部において、廃絶住居の埋没過程における遺物の廃棄行為も確認されており、これらの分布傾向にも注意を要する。

第32図 時期別変遷図


3 縄文後期の集落構造
後期の集落は中期集落の北東に位置し、台地を湾入する低地部に沿って弧状に住居跡群が分布しており、堀之内Ⅰ・Ⅱ期と加曾利B1期にかかる遺構群が主体である。その範囲は低地部に接する北向き斜面地で分布が密であり、台地の平坦部に至る地点で分布が途切れ、あまり内陸まで進出しない。集落は湾入する低地に並行する帯状の形態がみて取れる。また、堀之内期の集落は西側の一部が中期集落に重なるように分布する。その後、加曾利B1期の集落は堀之内期の集落西端部から出現し、そのまま低地部を大きく回り込むように中期環状集落の広場へ進出する様相をみせている。
その他の遺構群については、低地部に近い斜面部の住居群外縁部に縄文後期の遺物を包含する土坑群が分布する傾向がある。

4 江川流域の縄文時代環状集落とデーノタメ遺跡
江川幹川は北本市域の北部を発して南接する桶川市に入り、上尾市樋詰付近で荒川に合流する小河川である。この流域には縄文時代の遺跡が多く見られ、デーノタメ遺跡の規模に匹敵する中期の大集落がみられる。
デーノタメ遺跡の南西方向約1kmに位置する諏訪野遺跡は、これまで調査で約80軒の住居跡が調査され、長径約180mの環状集落と認識されている。集落の萌芽は勝坂3期にかかる遺構群であるが、集落の主体は 加曾利EⅠ期の住居群である。続く加曾利EⅡ期には住居跡の数が減りはじめ、加曽利EⅢ期に至る前に集落の終息がみられる。また諏訪野遺跡の下流約1.5kmに位置する高井遺跡では、同様に直径200mの環状集落が確認されており、現在までに約100軒の住居跡が調査されている。その継続期間は勝坂3期~加曾利EⅢ期にわたる。遺跡の消長については、勝坂3期において集落形成が始まり加會利EⅠ期で最盛期を迎え、加曾利EⅢ期前半において消息に向かう。なお、高井遺跡の東側に隣接する高井東遺跡では、加曾利B2期~安行Ⅲa期にわたる集落が後続する。
諏訪野遺跡、高井遺跡においてはデーノタメ遺跡の集落形成の消長が共通の様相を見せている。とくにそれぞれが大規模集落であり、これは集落が相互に影響し合う関係をもっていたと考えられる。また、時間的な集落の移動について、諏訪野遺跡では明確な後期住居跡などの遺構確認することができなかったが、高井東遺跡では後期集落が中期集落に隣接して出現し、断絶期間に相違があるもののデーノタメ遺跡の変遷のあり方と類似点が注意される。
第7表 埼玉県内の大宮台地及び武蔵野台地上の主な環状集落
  遺跡名 所在 水系 集落規模 勝坂 加曾利 称名寺
123
大宮台地木曽呂表遺跡川口市芝川140×130
馬場小室山遺跡さいたま市芝川170×130
下加遺跡さいたま市鴨川60×60
八幡遺跡さいたま市鴨川160×130
秩父山遺跡上尾市綾瀬川150×150
髙井遺跡桶川市江川200×200
諏訪野遺跡桶川市江川180×160
デーノタメ遺跡北本市江川210×140
武蔵野台地泉水山遺跡朝霞市黒目川200×100
西原大塚遺跡志木市柳瀬川180×180
池田遺跡新座市黒目川120×120
嵯峨山遺跡新座市黒目川150×150
新座遺跡新座市柳瀬川200×200
吹上原遺跡和光市白子川120×120
膳棚遺跡所沢市六ツ家川180×80
和田遺跡所沢市柳瀬川200×160
西上遺跡所沢市柳瀬川100×80
坂東山遺跡入間市入間川80×80
水窪遺跡入間市入間川60×60
羽沢遺跡富士見市富士見江川200×180
松ノ木遺跡富士見市富士見江川180×120
花影遺跡坂戸市越辺川140×120
高麗石器時代住居跡遺跡日高市高麗川50×40
江川南遺跡大井町福岡江川100×100
西ノ原遺跡大井町さかい川250×200
※集落規模は報告書等からの推計値である。
5 埼玉県内における縄文中期の環状集落とデーノタメ遺跡
大宮台地及び武蔵野台地における縄文時代中期集落について、デーノタメ遺跡の存続期間と集落形態が共通する主な遺跡を第7表にまとめた。この比較において、大宮台地上ではデーノタメ遺跡の集落規模の大きさが際立つことがわかる。近年、大規模集落とそれを取り巻く歴史的環境の分析は集落の形態、存続期間、立地などの情報により行われることが多い。江川流域のデーノタメ遺跡を含めた大規模集落群の優位性については、周辺の遺跡群との関係性が重要な要素となると考えられ、今後も検討を進めていきたい。


(1)デーノタメ遺跡の南部には支谷を隔てて隣接する板戸遺跡が立地する。遺跡からは称名寺Ⅰ、Ⅱ式の住居跡4軒が検出されており、デーノタメ遺跡の遺構断絶期間の一時期に集落の移動が行われたと考えられる。(未報告)
(2)ただし、第4次調査区の木組遺構は年代測定により加曽利EⅣ期~称名寺Ⅰ期の年代が与えられおり、台地上に当該期の住居跡等が遺存している可能性もあると思われる。

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