北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第1節 治承・寿永の内覧と武蔵武士

奥州兵乱と武蔵武士
文治元年(一一八五)三月、壇ノ浦で平氏を滅し、源平の合戦は一応の終息をみた。しかし、頼朝にとっての次の攻擊目標は、北上川流域に広がる奥六郡(胆沢(いさわ)・江刺(えさし)・和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)・紫波(しわ)・岩手(いわて)の六郡、 現在の岩手県内)を根拠に陸奥・出羽両国を支配していた奥州藤原氏の勢力であった。藤原秀衡は頼朝の背後にあって精兵を擁した軍事力と豊かな経済力を基礎として、時には後白河院と結んで頼朝を脅かし、頼朝にとつては目の上のこぶであった。加えて奥州は平家滅亡後の頼朝の勢力の及ばない唯一の地域でもあった。頼朝は義経の奥州入りを好機として後白河法皇に秀衡反逆を訴え、奥州への圧力を強めていった。
文治三年(一一八七)十月、秀衡は死に際して嫡子泰衡に家督を讓り、国衡以下の子息たちに義経を大将軍として国務をとり、兄弟協力して頼朝に対処するよう遺言した。これに対し頼朝は、義経追捕を要求して奥州に圧力を加え、義経逮捕の宣旨や院庁下文を次々と奥州に発した。
頼朝の圧力に屈した泰衡は、父の遺言を破って文治五年閏四月三十日、義経を衣川(ころもがわ)の館(高館)に襲った。多勢に無勢の義経は防戦の甲斐もなく敗れ、妻子を殺し自害した。
泰衡は頼朝の意に副(そ)って義経を殺し、鎌倉と和睦(わぼく)するっもりでいたが、その考えは甘かった。頼朝の本当の目的は奥州に強大な勢力をはる藤原氏を討滅し、源氏の覇権を確立することにあった。頼朝は義経殺害後直ちに、朝廷に奥州追討宣旨を要求したが、朝廷は許さず、七月十六日、頼朝は勅許を待たず奥州発向を決意した。鎌倉勢は七月十八・十九日に東海道大将軍千葉常胤・八田知家(はったともいえ)麾下の常陸・下総両国の軍勢が浜通り(太平洋側)を北上、北陸道大将軍比企能員・宇佐美実政に率いられた上野などの軍勢が越後を経て出羽国に向かい、頼朝は自ら大手軍一〇〇〇余騎を率いて内陸部を北上した。先陣は畠山重忠で、じつに従軍一四四名のうち約三割弱にあたる三九名が武蔵武士で、相模の武士と共に頼朝軍の中核となっていた。『吾妻鏡』には、その歴名について、源氏一族の武蔵武士平賀義信を筆頭に三番に源範頼、次いで三浦義澄ら有力御家人が続き、三三番に吉見頼綱が秀郷流太田氏族に続いて記され、頼綱と太田氏族との関係を示唆している。三八番・三九番に安達盛長・足立遠元が続き、『尊卑分脈』に示されるように両者の同族関係を暗示させる(古代・中世No.六六)。
七月二十九日白河関(福島県白河市)を越え奥州に入った頼朝は、八月七日奥州軍の防衛基地である阿津賀志(あつかし)山の南麓国見駅(福島県国見町)に着いた。頼朝麾下の大手軍は国衡と二万の精兵が籠る阿津賀志山の堅塁を突破し、東海道軍と合流後、平泉を陥落した。
泰衡は平泉の重宝を焼き払って敗走し、頼朝に命乞いをしたが拒まれ、九月三日、夷狄島(北海道)を指して落ち延びる途中、郎従河田次郎の手にかかり殺された。ここに名門奥州藤原氏は滅亡した。
九月二十日、頼朝は奥州合戦の勲功の賞を行い、畠山重忠は葛岡郡(宫城県古川市・岩出山町・田尻町付近一帯)を拝領、南武蔵の葛西清重は伊沢・磐井・牡鹿等の諸郡を拝領、後に奥州惣奉行の地位についている。その他、武蔵武士も勲功の賞として所領を拝領したが、詳細は不明である。これ以降奥州に武蔵武士の所領の存在が知られるが、その中にはこの時に拝領したものもあったと思われる。

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