北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

7 桶川宿・鴻巣宿の助郷

享保九年の助郷帳
その後の変遷を、天明二年(一七八二)八月付けの「中山道桶川町助郷帳の写」(近世No.一八二)から見ると、これは享保九年(一七二四)九月に作成された桶川宿の助郷帳である。その助郷村を一覧表にしたのが表30の桶川宿助郷である。これによれば、大助は四〇か村ー万一四三三石とあって、先の助郷村が変化していることが分かる。
元禄七年と享保九年の助郷帳とを比較すれば、助郷村三か村・助郷高ー八七石の増加となっているが、全体として余り変化はないように見える。しかし、享保九年の助郷帳では小泉・小敷谷・畔吉・荒井・小林の五か村が除かれ、新たに舎人・高虫・原市・篠津・五丁台・上平野・春日谷津・菅谷の八か村が加えられ、双方にある助郷村も助郷高に変化が見られるので、元禄七年以降に助郷の編成替えがあったと思われる。除外された小泉・小敷谷・畔吉の三か村は上尾宿に近いことから上尾宿の、荒井村は鴻巣宿の助郷にそれぞれ編入されたとも考えられる。一方、市域の下中丸・上中丸・山中・本宿・下石戸・石戸の六か村はほぼ変化がなかった。
その後、元文四年(一七三九)、六月、上・久保・南の三か村は、元禄七年の助郷高が村高を定める検地の実施以前に決められたとして訴え、以後は三か村の合計七一石を減らして勤めることとなった。

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