北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第2章 村落と農民

第5節 村のしくみと農民生活

1 村役人

名主
江戸時代の村政の運営に当たったのは、村方三役と呼ばれた名主・組頭・百姓代であった。まず、名主は、近世における村の長に当たる職で、村政の中心となり、領主への年貢納入や諸負担の事務、宗門人別改め等の戸籍事務、村民の統制等の仕事のほか、領主や他村に対しては村を代表する立場にあった。
一般的に関東では名主と称し、関西では庄屋と称したが、関東にあっても幕府直轄領以外の旗本知行地や藩領などでは江戸時代中ごろまで庄屋と称した例も見られた。しかし、今のところ市域の史料からは庄屋の名称は見つかっていない。
名主職に就けたのは、その村の構成員である本百姓であったが、江戸時代初期のころは、村の開拓者である草分け百姓がなり、世襲することが多かった。

村方三役

江戸時代中ごろ以降、農村の経済活動が活発になり、新興の大高持ちの本百姓が生まれると一代交代や年番で務めたり、さらに後期になると村内の百姓による入札(いれふだ)(選挙)によって選ばれたり、推薦された者がなった。いずれの場合も村からの願い出によって領主から命ぜられた。また、名主は一村に一名が通常であるが、相給地(あいきゅうち)と呼ばれて複数の領主のいる村では、複数の名主が任命されていた。
市域の史料を見ると、弘化二年(ー八四五)、荒井新田では、それまで本村の荒井村の名主平兵衛が名主を兼帯していたが、亡くなったので、その伜為三郎を跡役(後継者)に任命して欲しいと組頭庄兵衛ほか村民一同で大熊善太郎役所へ願い出ている(矢部洋蔵家三〇三)。なお、この願書の提出に当たっては、事前に荒井村の領主牧野鉄次郎の添え文を頂戴しており、無事に任命されると、荒井村名主為三郎はその旨を領主牧野氏に報告している(矢部洋蔵家二九四)。
文久二年(一八六二)、荒井新田では、荒井村名主で荒井新田の名主を兼帯していた平兵衛が病気がちで村政運営に差し支えるとして、荒井新田の百姓代惣左衛門に名主見習をさせて欲しいと願い出ている(矢部洋蔵家三ニー)。また、安政六年(ー八五九)の本宿村では名主資格者が三人いて一年交替で務めることになっていた(近世No.五〇)。その年の名主を年番名主といい、他を非番名主といった。
一方、石戸領小泉村(上尾市小泉)では、享保十八年(一七三三)に名主、組頭に入札(選挙)を行っており、同じ牧野氏を領主とする市域の村々でも、入札による名主の選出が行われたこともあったであろう(矢部洋蔵家九五九)。ところで、こうした名主は具体的にどのような仕事をしたか見てみよう。
最も重要な仕事は、領主からの年貢割付状に基づいて、村内の百姓の持ち高に応じて年貢を割り付け、徴収して領主に納める仕事である。年貢は村単位に賦課されるため、納められない百姓がいると、しばしば名主が肩代わりしなければならなかった。そのため、村で名主役を依頼するときに、こうした負担を掛けないと約束するケースも見られた。また、領主や幕府からの各種課役を村民に割り当てるのも大きな仕事であった。

写真12 長屋門 宮内 (松村晴夫家)

このほか領主からの各種の触や達を村民に徹底させたり、毎年村内の人口の動きを把握し、キリシタンがいないかを調べて宗門人別帳を作成する仕事もあった。
このような名主の仕事は常に文書を作成する。したがって同時に多くの文書類を前任者から引き継ぐことになる。
例えば、安政六年(ー八五九)、本宿村の名主の引き継ぎでは、畑方御検地帳二冊、田方御検地帳一冊、原山御検地帳二冊、古山京銭付帳ー冊、安政度名寄帳一冊、明和度名寄帳一冊、内山七兵衛様御焼印札ー枚、戸田五助様御焼印札一枚、去る安政五午年取立帳借用と、以上のような書類・焼印を今年の年番名主七郎兵衛が前任の名主彦四郎から、非常名主三郎兵衛を立ち会い人として、引き継いでいる(近世No.五〇)。
したがって、名主は、読み書きそろばんは人並み以上でないと務まらないし、人望も無くてはならなかった。また、名主には役料が特典として与えられたが、時には前述のように年貢未納者の肩代わりもしなければならないので、大高持ちの百姓でないと務まらなかった。

<< 前のページに戻る