北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第1節 村落の推移

1 村の概況

深井村
地名の由来は深井戸があったためという。上野(こうずけ)国(群馬県)白井城主長尾景春の孫景孝が天正年間(一五七三~九二)に当地で出生し、その子が深井対馬守景吉と名乗り、のち当地に住したという。もとは鴻巣の内、のち正保のころ分村。はじめ幕府領であったが、のち旗本日下部二氏の相給となる。検地は寛永六年(一六二九)に行われた。村高は『武蔵田園簿』で三二四石余(上・下分村前)、うち田三七石余(一一・四パーセント)・畑二八七石余(八八・六パーセント)で、他に寿命院領一〇石があった。『元禄郷帳』では上深井村一七四石余・下深井村一七五石余で計三五〇石余(含寿命院領)となり、その後あまり変わらなかった。高札場(こうさつば)は村の東方にあった。上・下の鎮守として氷川社があり、他に上村に第六天社、下村に稲荷社があった。寺院では新義真言宗殿林山金蔵寺寿命院(京都智積院末)がある。もと持明院と号し文明年間(一四六九~一四八七)の創建と伝え、戦国期に深井氏が中興し、天正十九年(一五九一)徳川家康より寺領一〇石の御朱印を与えられ、このころから寿命院と呼ぶようになった。他に同歓喜山東円寺・同橋本寺があった。化政期の家数は四八軒であった。主な物産に米・陸米・大麦・小麦・大豆・小豆・粟・稗・胡麻・蜀黍(もろこし)・甘藉などがあった。

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