北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

1 小学校教育の確立と普及

教育勅語の発布と学校儀式の制度化
明治二十三年(一八九〇)十月三十日、教育勅語が発布された。この勅語は明治十五年の軍人勅諭、同四十一年の戊申(ぼしん)詔書とともに、明治天皇が下した三大詔勅の一つであって、文字通り日本教育の根本理念を宣言したものとして教育史上とくに重要な意味をもっている。全文は三一五字からなり、その内容は前段で日本教育の根源が「国体ノ精華(せいか)」にあることを述べ、つづく中段では臣民が日常生活において守るべき基本の徳目を明示し、後段では臣民にその遵守(じゅんしゅ)を要請するとともに、この教えが古今東西を通じて誤りのない真理、すなわち世界普遍の真理であることを闡明(せんめい)にしている。

写真63 教育勅語

(『中丸小学校80年史』P39より引用)

この勅語が発布されると、芳川文相は翌三十一日、早速勅語の謄本(とうほん)をつくってそれを全国の学校に頒布(はんぷ)し、学校の式日その他便宜の日に全校生徒を集め、勅語の「奉読」と解説を行うよう訓示した。その結果、全国の官公私立学校に勅語騰本が下付され、各学校では式日などに勅語奉読式を行うようになった。すでに森文相期に御真影(ごしんえい)(御影(ぎょえい)ともいう。天皇・皇后の公式肖像写真のこと)の下賜(かし)やそれへの礼拝儀式が強制ではなく、自発的願い出に基づいて開始されていたが、今回は行政ルー卜を通じて強制的に下付された。公私立学校約三万校への謄本の下付は、明治二十三年末から二十四年(一八九一)初めにかけて行われた。「勅語」謄本の一斉下付によって、学校儀式のあり方が一変することになった。埼玉県では、同二十三年十二月、「勅語奉読式順序」を定め、それを管内に達した。それによれば、奉読式の開催日は一月一日、紀元節、神式天皇祭日、天長節、夏季休業開校の当日、の五日であって、式場には全校生徒・学校職員・町村長、其他学事関係者は必ず参列ないし参席し、式の始終は最も「謹厳静粛」にし、奉読後学校長は生徒に「更ニ意ヲ加ヘテ訓誨(くんかい)スヘシ」とされた。そして翌二十四年六月、文部省は第二次小学校令の条文(第一五条)に従って「小学校祝日大祭日儀式規程」を制定し、学校儀式の基本型を定めた。その基本型とは、御真影礼拝、天皇皇后の万歳奉祝、勅語奉読、校長訓話、式歌斉唱であり、祝祭日の種類によって若干の省略が許された。式日は休日ではなく、児童・教師・町村学事担当者はもちろん、生徒の父母・親戚およびその他市町村住民にも参加を呼びかけ、学校を「勅語」をシンボルとする国民教化の中心たらしめようとした。
当初、儀式は三大節・八祭日(新年宴会を除く)のすべてに予定したが、後に三大節(一月一日、天長節、紀元節)に限定し、他の祭日儀式は任意とした。これは明治三十三年(一九〇〇)の第三次小学校令において法制化され、以後、三大節儀式として慣例化された。昭和二年十一月に「明治節」(明治期の天長節)が新たに加えられてからは四大節となった。
一方、勅語謄本の下付を一大契機(けいき)として学校儀式の形態が特定されるにしたがって、御真影の下付も一段と進行した。しかし、その場合他の模範となるべき優等の学校というのが下付の条件とされ、小学校はまず高等小学校から行われた。市町村立尋常小学校についてはすぐには下賜(かし)しないとされたが、明治二十五年五月、近傍(きんぼう)の学校へ下賜された御真影を複写・奉掲することが認められ、翌六月には市販のものを用いてもよいことになった。
埼玉県では、御真影の複写が許可された同二十五年九月、「御影(ぎょえい)奉掲手続」(『県史資料編二五』NO.一九〇)を定め、八か条にわたって複写の手続きを規定した。この手続きにしたがって両陛下の御影複写に関する申請が各町村から相次いで出されたが、北本市域の学校からの申請書類は残念ながら見当たらない。
教育勅語と御真影は、大日本帝国憲法下における国民教育の二大シンボルともいうべきものであったから、その守護には細心の注意が払われた。御影(ぎょえい)複写に関する申請書にも、守護の方法を具申し知事の許可を得ることになっていた。明治二十四年(一八九一)九月に、埼玉県が文部省の「準則」に基づいて制定した小学校設備規則にも、校舎には天皇・皇后の御影と教育勅語の謄本を納める場所を特定することが明記されている。また、翌二十五年十月の御影奉蔵に関する久保田知事の「訓示」には、「一、御影ハ平常之ヲ奉置函ニ納メ管鑰(かんやく)ヲ施スヘシ」「一、勅語謄本ハ御影奉置函卜同一ノ場所ニ奉蔵スルヲ要ス」「一、非常変災ノ場合ニ於テ御影及 勅語謄本ヲ安全ニ守護スルノ準備ヲ懈(おこた)ルへカラス」ほか六項目にわたる奉護の要項が指示されている。平時においても非常時においても、御影及び教育勅語を守護する責任者は教員であった。それは教員の一大任務であった。教員の当宿直制度は、教育勅語と御影の守護を直接的契機として慣行化されたものである。その後、儀式は画一的形式化の方向に向かい、最敬礼(明治二十四年七月)、教育勅語奉読の一定化(明治二十八年)、祝祭日唱歌の歌詞と楽譜の指定(明治二十六年八月)等が相前後してなされた。
また、第二次小学校令の実施を契機(けいき)として、学年制が全国的に採用され、校暦の共通化が進められた。このことは学校行事を全国的に定型化する上に重要な条件となった。半年進級制から一年を教授の単位とする学年制に変わっても、学年の始期と終期は地方によって異なっていた。そこで文部省は学校管理上の必要から一般会計年度のサイクルに合わせて学年の始期と終期を統一することとし、小学校には明治二十五年四月から適用した。そして同三十三年の第三次小学校令の施行規則から明文化した。
四月を新学期とする学年制の成立によって全国的に入学の時期が一定し、ここに初めて入学式が学校の儀式として定着するようになった。四月を始期とする学年制の施行は、その当然の結果として卒業式の時期を一定にし、三月下旬に行うことが定例となった。それは同時に、始業・終業の時期でもあり、在校生にとっては始業式・終業式が儀式として行われることとなる。こうして入学式・卒業式・始業式・終業式等は、学校の始めと終わりを飾る大事な学校儀式となった。

<< 前のページに戻る