北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第3章 第一次大戦後の新展開

第3節 国民教育体制の拡充

1 小学校の拡充と教育の新動向

郷土教育の実践
綴方教育とともに、昭和初期を代表する教育実践に郷土教育がある。この郷土教育は、昭和恐慌期に文部省の奨励策によって全国的に広がり、我が国の教育界は一時郷土教育ブームの観を呈するに至った。当時、各府県の師範学校附属小学校を拠点(きょてん)として展開された郷土教育は、郷土愛の涵養(かんよう)に主力が注がれた。本県師範学校の場合も同様であって、昭和八年七月の同校著『中正原理各科教授の要諦(ようてい)』には、「郷土教育の究極(きゅうきょく)目標は郷土愛の涵養(かんよう)にある」ことが明示されている。
綴方教育の優秀校として広くその名を高めた石戸小学校は、郷土教育にも積極的に取り組んだ。その中心人物は綴方教育と同じく綱島憲次であった。彼の郷土教育構想は、既述の「研究物綴」の中に見出すことができる。とくに昭和八年五月、石戸尋常高等小学校読方研究部によってまとめられた「読方教育の郷土化と郷土読本の取扱」(ガリ版刷り全五ー頁)は、同校の郷土教育への取り組みの全体構想を知る上で貴重な資料である。その内容はー、郷土教育に就いて 二、読方教育と郷土教育 三、郷土化細目 四、方言に就いて 五、郷土の文字 六、郷土読本に就いて 七、古書に記(しる)された郷土の七項目からなっている。
まず郷土教育の目的について、「郷土に於ける自然及文化現象に接触せしめて郷土感情を涵養し、進んでは之(これ)が具体的全一的の理解認識によって歴史的社会的自我を発見し、益々郷土の発展と改善とを企図(きと)する郷土意識を育成する」ことであるとした。要約すれば、郷土認識、郷土感情、郷土意欲を涵養することである。そこでこの任務を遂行する方法上の重要施策として、(1)郷土調査、(2)各教科の郷土化(或は郷土事象の教材化)、(3)郷土室、(4)郷土読本、をあげ、「本校に於てもそれぞれ実施して居る」ことを明らかにしている。
「読方教育と郷土化」については、読方が国語読本を使用する限り、また読方本来の使命を考える限り、「読方教育と郷土教育の関係は即ち郷土化であり、方法原理としての意味での関係である」とし、「方法原理としての郷土化は、実際として郷土のことぱに、郷土の事実に、郷土の実例に移して、或は関聯(かんれん)せしめての方法であって、この方法なくして国語教育の目的とする思想感情の把握は望まれぬ」とした。さらに、方法原理としての郷土化を考察すれば、(1)内容理解の為の郷土化と、(2)内容を郷土化して郷土に活かして行く郷土化、とがあるとし、つづいて国語読本から郷土化教材の題目を示している。石戸小学校では、その題目を教授細目に織込(おりこ)んで活用に努めた。
「郷土読本に就(つ)いて」は、まず賛否両論あることを指摘している。必要論としては郷土教育の目的を達成する手段として最も効果的である。実に郷土は児童の生命の母胎(ぼたい)である。郷土の事象は児童を培(つちか)い活動の天地へと転回させる偉大な力をもっている。しかし、ややもすると我々はその恩恵に慣(な)れ、それを意識し反省することを忘却(ぼうきゃく)するのと同様に、郷土に対する考察をなおざりにする場合が多い。そこで郷土を正しく深く認識させ、郷土を愛し郷土に感謝して、力強く自己を進展させる良風培養の資料が必要であって、それが郷土読本である。したがって、これは郷土教育の方法的施設としてきわめて大切なものである、というわけである。

写真118 郷土読本

(北本市史編さん室蔵)

写真119 蒲桜

(『郷土読本』より)

これに対して、不要論は(1)教育会では副読本程度にしか用いられず、その価値を低下して児童に認識させることになる。(2)郷土教育は生きた郷土を対象にするが、これを読本にすると、死んだ郷土を対象にすることになり易い。(3)郷土教育は総合教育であるから、教科としての表現が非常にむずかしい、という三点をあげている。しかし、これらは本質的な問題ではなく技術的問題であるとし、『石戸郷土読本』の編さんに着手した。この郷土読本を編さんした綱島憲次は、『石戸小学校六〇年史』(Pーニ七)の「石戸小学校の思い出」の中で、「石戸の歴史をしらべ、過去と現在とのつながりと将来への夢を描きつつ、約半年間の資料集め、後の半年間でこれを文章とし、約四十編を書きあげて、その中から二十編をとり、『石戸郷土読本』として印刷した。表紙は吉田慎一郎先生の苦心の作である。費用は村から出ないので、自費出版で六十余円かかった。当時私の月給は六十二円であったと思う。さいわい池田校長先生のはからいで、村教育会でー〇〇部をー部二五銭で買い上げてくれたので、その代金二十五円が手に入り、他に希望者に配布して合計四十余円の収入があり、印刷費を清算することができた。」と述懐している。こうした苦労を経て『石戸郷土読本』が世に出たのは、昭和八年二月十一日であった。そのころはまだ昭和恐慌の影響下にあり、村政も村人の生活も深刻な不況に苦しんでいた。本書の奥付には発行者は「石戸教育会」となっており、個人の出版物ではない体裁(ていさい)をとっているが、先に示した綱島の回顧談から知られるように、実際は彼の自費出版であって公費出版ではなかった。村教育会の出版物でもー〇〇部買い取りが精一杯であった。こういうところにも、昭和恐慌が暗い影を落している。本書を編さんした綱島は「はじめのことば」の中で、「此の書は、石戸の産業・地理・伝説等から取った材料を、読み物的にしたものです。皆さんは、之(これ)を読んで事がらを知っただけではなんにもなりません。更に之(これ)を基礎とし、動機として、皆さんの手で郷土を調べ、生きた郷土を理解し、発展させるために、役立たせて下さい。書物のねうちは、読む人の心一つにあります。どうぞこの石戸郷土読本を生かして戴(いただ)きたい」と要望した。一年の歳月をかけて調査・執筆し、費用の調達に苦労しながらようやく出版にまでこぎ着けた編者からすれば、「はじめのことば」は文字どおり真実の叫びだったといえよう。

写真120 小学国語読本

(窪田祥宏氏蔵)

写真121 同

(窪田祥宏氏蔵)

しかし、この切なる要望は、編者の期待どおりに適(かな)えられたのだろうか。出版費のおよそ三分の一強を村教育会が買い取り、残り三分の二弱を希望者に販売し辛(かろ)うじて出版費を充足した、という出版の経緯からして、学校での郷土教育に『郷土読本』が有効に活用されたとは考えにくい。先にみた「読方教育の郷土化と郷土読本の取扱」の「郷土読本に就て」のところに、「今日の制度上郷土読本を以て直ちに正読本とすることは出来ない。どこまでも補充教材として活用すべきである。」とあるとおり、性格上・使用上に大きな限界があった。この限界は、国定教科書制度に伴う宿命でもあった。そのことは『郷土読本』の不要論の第一の理由にもなっていた。
こうして国定教科書制度の下での郷土教育は、その実践場面に越えることのできない厚い壁があり、そのために限られた枠の中での実践とならざるを得なかった。だから実際には石戸小学校のように、「各科教授細目に記入し、各教科目に附帯して取扱ふのを本体」とするケースが多かったようである。といっても、限られた枠の中での郷土教育の実践が、全く無用であったわけではない。教科課程及び教材の編成に影響を及ぼし、その生活化を促(うなが)したことは注目すべきこととして理解すべきであろう。

<< 前のページに戻る