北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第1節 十五年戦争下の村政

1 経済更生運動と村政

世界恐慌の影響
日本経済は大正九年(一九二〇)の戦後恐慌(きょうこう)以後慢性(まんせい)的な不況に陥(おちい)り、また貿易収支も入超(にゅうちょう)を続けて来た。浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣はこの状態を建て直すため、蔵相に井上準之助(いのうえじゅんのすけ)を起用し、財政緊縮と産業合理化によって物価の引き下げをはかるとともに、昭和五年一月に金解禁(きんかいきん)を実施し、為替(かわせ)相場の安定と輸出の増進をはかった。これは当時の列強諸国と同様に金本位制(きんほんいせい)に復帰することによって、産業の振興と貿易の発逹(すなわち入超の解消)をはかり、財政の更生を促そうと企図(きと)したものであった。しかし、蔵相の意図はついに実現されず、金輸出解禁によって為替騰貴(かわせとうき)と正貨(せいか)の大流出が始まった。
これに追い打ちをかけるように襲(おそ)ったのが、昭和四年十月二十九日のニューヨーク株式市場の株価暴落に端を発した世界恐慌であった。これは急速に資本主義諸国に波及して、未曾有(みぞう)の世界大恐慌となった。浜口内閣の物価引き下げ政策に、世界恐慌の影響が重なって物価は暴落した。しかも海外では物価がより大幅に低下したため、日本の物価は国際的に割高となり、輸出の激減をまねき、生産は縮小を余儀(よぎ)なくされた。日本経済は著しい不況に陥り、企業の操業短縮・労働強化・賃金引き下げが行われ、休業や倒産が続出し、失業者があふれる状態となった。
特にこの恐慌が日本農業に与えた打撃は大きく、故に農業恐慌といわれた。生糸(きいと)は本「邦輸出品の大宗(たいそう)」といわれ、全輸出金額の三十六パーセント、対米輸出では八十八パーセント(大正十五年~昭和四年平均)を占めていた。この生糸価格が暴落したことによって繭価(まゆか)も暴落し、前年相場の半値以下にまで惨落(さんらく)した(『県史通史編六』P四九四)。昭和五年の全国農家戸数は約五六〇万戸で、その約四割弱の二二二万戸の農家が養蚕を正副業にしていた。当時の農家では、養蚕収入は女工(女子労働者)らの出稼ぎ賃金と並んで最も重要な現金収入源であり、農業恐慌はこの現金収入の途を断った。
次いで米価の暴落が追い打ちをかけた。同五年十月の政府の米作予想の第一回発表(同年度の米収穫高は、過去五か年平均に比べ十二.五パーセント増の豊作)をきっかけに、米価は大暴落して空前の豊作飢饉(ききん)となった。さらに翌年には、東北・北海道が大凶作となって農業恐慌は一層深刻化した。しかも都市における失業者が帰農したため、農村の困窮(こんきゅう)は一層深まり、特に東北農村を中心に「娘の身売り」や欠食児童の増加など農村問題が重大化した。
政府はこれらの深刻化する農業不況に対して、三つの主要な対策を昭和七年八月以降うち出した。第一は米価対策で、米穀法第三次改正と翌八年三月の米穀統制法の制定であった。前者は、輸入米の事実上の禁止により国内米価の保護をはかり、後者では、米生産費を基準に最高価格と最低価格を決定し、米価をその範囲内に維持するために無制限に買い入れ・売り渡し・貯蔵加工を行うことになった。第二の政策は、負債整理対策として低金利資金の供給によって産業組合と地方銀行の救済をはかるいくつかの法律が制定された。しかし、これらは地主や金貸(かねかし)業者などの債権者(さいけんしゃ)保護が主眼で、貧農は対象とされなかった。第三の対策は、財政的に主流をなした時局匡救(きょうきゅう)事業で農村振興のための道路建設、河川修理、治山治水、港湾改良などの公共事業をおこし農民に現金収入を与えようとした。

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