北本市史 通史編 近代
第4章 十五年戦争下の村とくらし
第3節 太平洋戦争と教育
1 国民学校の誕生と教育
戦時色を強めた国定教科書先に述べたように、国民学校は「皇国ノ道に則(のっと)」って「国民ノ基礎錬成ヲ為」し、名実共に国民教育の面目を一新することを意図していたから、教育内容の刷新はその目的の達成に不可欠な要件であった。時の文相橋田邦彦は国民学校令の施行に当たって北海道庁及び府県に対して訓令(第九号)を発し、そのなかで、「国民学校制(度欠)ノ確立卜共ニ其ノ教科用図書ノ編纂二モ根本的刷新ヲ加フルコトトセリ、即チ国民学校ノ目的タル皇国民ノ錬成ニ適切ナル教材ノ選択ニ力(つと)ムルハ勿論(もちろん)、特ニ之等(これら)ヲ児童心身ノ発達段階ニ適応シテ按排(あんばい)スルト共ニ、教材相互間ノ連絡ヲ緊密ナラシメ、之ニ依ツテ教材統合ノ趣旨ラ具体化スルコトニ最モ意ヲ致シ、以テ国民学校教育ノ本旨ノ達成ヲ期」(前掲『国民学校制度ニ関スル解説』)すことを明らかにした。この趣旨にしたがって、文部省は昭和十六年から十八年にかけて国民学校初等科の教科書を発行したが、それは第四期の国定教科書を全面的に改訂し、新たに編集したものであって、戦時色を反映した内容を盛りこんでいる。
国民学校の教科として登場した国民科は、その中核的教科として「特ニ国体ノ精華(せいか)ヲ明ニシテ国民精神ヲ涵養(かんよう)シ皇国ノ使命ヲ自覚セシムル」(国民学校令施行規則第二条)という重要な任務をもっていた。それに最も直接的全面的にかかわるのが、道徳の領域を担当する修身であった。初等科の修身教科書は、第一・第二学年用が『ヨイコドモ』(上・下)、第三学年以上が『初等科修身』(一~四)で、第一・第二学年用は昭和十六年から、第三・第四学年用は十七年度から、第五・第六学年用は十八年度から使用された。
第一学年用の『ヨイコドモ、上』は「二重橋」の口絵、同下は「神武天皇御東行の図」の口絵から始まり、そこに
はすでに児童に天皇と国体に対する感情を印象的に与えようとする意図がこめられ、この期の教科書の全課にわたる
性格を表している。具体的には第一学年用の『ヨイコドモ上』の「テンチョウセツ(天長節)」「シンネン」、下の「ウジガミサマ」「サイケイレイ(最敬礼)」「メイジセツ」「キゲンセツ」「日本ノ国」、『初等科修身 一』の「み国のはじめ」「大神のお使」、二の「日本は神の国」などに見られる。これらは同時に「バンザイ」「兵タイサンへ」「日の丸の旗」などの軍国的教材と関連し、さらに『初等科修身三』の「よもの海」「昔から今まで」などの超国家主義による戦争讃美とも結合している。右(以上)のなかから一、二内容を紹介しよう。『ヨイコドモ上』第十八課には次のような戦争教材が扱われている。
写真148 ヨイコドモ上
(窪田祥宏氏提供)
写真149 同 二重橋
(窪田祥宏氏提供)
十八 バンザイ
テキノタマガ、雨ノヤウニ トンデ 来ル中ヲ、日本グンハ、イキホヒヨク ススミマシタ。テキノ シロニ、日ノマルノ ハタガタカクヒルガへリマシタ。「バンザイ。バンザイ。バンザイ」 勇マシイ コエガ ヒビキワタリマシタ。
テキノタマガ、雨ノヤウニ トンデ 来ル中ヲ、日本グンハ、イキホヒヨク ススミマシタ。テキノ シロニ、日ノマルノ ハタガタカクヒルガへリマシタ。「バンザイ。バンザイ。バンザイ」 勇マシイ コエガ ヒビキワタリマシタ。
『ヨイコドモ下』の第十九課では、日本は世界一すぐれた国であり、しかも「世界ニ 一ツノ 神ノ国」であることが強調されている。
十九 日本ノ国
明カルイ タノシイ 春ガ 来マシタ。日本ハ、春 夏 秋 冬ノ ナガメノ美シイ 国デス。山ヤ 川ヤ 海ノ キレイナ 国デス。コノ ヨイ 国ニ、 私タチハ 生マレマシタ。オトウサンモ、 オカアサンモ、 コノ国二 オ生マレニナリマシタ。オジイサンモ、 オバアサンモ、 コノ国ニ オ生マレニナリマシタ。日本 ヨイ 国、キヨイ国。世界ニ 一ツノ 神ノ 国。日本 ヨイ 国、強い国。世界ニ カガヤク エライ国。
明カルイ タノシイ 春ガ 来マシタ。日本ハ、春 夏 秋 冬ノ ナガメノ美シイ 国デス。山ヤ 川ヤ 海ノ キレイナ 国デス。コノ ヨイ 国ニ、 私タチハ 生マレマシタ。オトウサンモ、 オカアサンモ、 コノ国二 オ生マレニナリマシタ。オジイサンモ、 オバアサンモ、 コノ国ニ オ生マレニナリマシタ。日本 ヨイ 国、キヨイ国。世界ニ 一ツノ 神ノ 国。日本 ヨイ 国、強い国。世界ニ カガヤク エライ国。
神国日本に生まれた誇りをもたせ、少国民に護国の精神と戦意高揚(こうよう)を促(うなが)すような修身教材は、各学年にとり入れられ、非常時教科書としての性格をみなぎらせている。
次に、国語教科書についてみると、初等科第一学年用は『ヨミカタ』(一・二)、第二学年用が『よみかた』(三・四)、第三学年から『初等科国語』(一~八)各学年二冊ずつであった。国語教科書にも時局が反映され、国家意識の高揚や軍事に関する教材が多い。
写真150 ヨミカタ 一
(窪田祥宏氏提供)
写真151 同
同『ヨミカタ 一』をみると、その始めには文章はなく絵のみで、ラジオ体操の絵(二~三頁)、校庭の遊戯の絵(四~五頁)などが掲げられ、六頁から「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」という文章があり、五人の子供たちが朝日に向かって手をあげている挿絵(さしえ)を配している。その後に「ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ」、「ヘイタイサン ススメ チテ チテ タ トタ テテ タ テタ」などがある。最後の「モモタロウ」の童話も、おじいさんとおばあさんが日の丸の旗を振って凱旋(がいせん)軍人を迎(むか)える情景を描いている。皇国意識・軍国意識を育てる教材は、もちろん低学年ばかりではなく、第三学年以上の『初等科国語』にも含まれていた。題材は日本の神話・古典・歴史などから取られている。
また、富士山の歌詞にしても、第四期国定本では「富士は日本一の山」であったが、第五期国定本では「たふといお山 神の山。日本一のこの山を、世界の人があふぎ見る」(『よみかた 四』)と改められた。富士山こそ日本精神の権化(ごんげ)であり、しかも皇国日本の象徴であるこの山は、世界の人をして仰がせしめるというように、八紘為宇(はっこういう)的に解釈された。
国史の教科書も全般にわたって改変された。それは国史が、皇国思想の培養に重要な役割を期待されたことに関連している。初等科の歴史教科書は、『初等科国史』(上・下)二冊であった。上・下巻とも文学的表現を用いて記述されているが、教師用書をみると、国史は何よりも「肇国(ちょうこく)の精神」の具体的顕現として取り扱わなければならない旨が述べられている。つまり、「肇国の精神」を闡明(せんめい)にすることが戦時下における歴史教育の眼目とされ、皇国史としての編集方式を採(と)ったのもそのためであった。
地理の教科書も新たに書き直され、昭和十八年二月、『初等科地理』(上・下)二冊が発行になった。上は初等科第五学年用に、下は第六学年用に当てられた。内容は上が日本地理、下は当時の「大東亜共栄圏」の地域を取り扱い、アメリカやヨーロッパなどは省(はぶ)かれた。下巻の末尾には「太平洋とその島々、アジア大陸からインド洋へかけて、いっさいを含む大東亜---その中心こそ、まさしくわが日出づる国日本なのです。いや栄えゆく、この大和島根(やまとしまね)に生をうけたわれら一億やからは、今こそ大御心のまにまに、祖先に恥ぢない大東亜建設の偉業(ゐげふ)を立てて、世界永久の平和、万邦協和(ばんぽうけふわ)の喜びを、よろずの民にわかち与へなければなりません。」(ルビ原文のまま)と、日本国民に大東亜建設の使命のあることを訴えていた。したがって、本書は日本を中心とした大東亜地理書ともいうべき性質の教科書であった。
当時の教科課程によれば、地理や国史は初等科第五学年から独立の教科として課されることになっていた。そこで第四学年で「郷土の観察」を始めることとし、これを国史と地理の基礎課程とした。しかし、その内容は土地によって異なるので、全国共通の児童用教科書はつくらず、教師用書として『郷土の観察』一冊を発行した。
国民学校の発足にともない、算数の教科書も新たに編集された。新しく編集された教科書は『カズノホン』、『初等科算数』である。『カズノホン』は四冊で、初等科の第一・二学年用(各学年二冊)であり、第三・第四学年用(一~四)は昭和十七年度から、第五・第六学年用(五~八)は昭和十八年度から使用された。『カズノホン 一』を見ると、軍艦、航空母艦を背景に多くの軍用飛行機があり、それを教えさせたり、日の丸の旗を立てた戦車を示し、その数を計算する問題がでている。『初等科算数』の内容も戦争に関連する問題設定が多く、総じて戦時色の濃いものになっている。
理科の教科書も新たに編集され、『自然の観察』、『初等科理科』、『高等科理科』が編集された。当初『自然の観察』(教師用のみ)は第一学年から第三学年までの各学年に二冊、合わせて六冊、『初等科理科』は第四学年から第六学年まで各学年とも児童用・教師用各一冊、合わせて児童用三冊、教師用三冊を予定し、『高等科理科』も各学年に児童用・教師用各一冊を編集する予定であった。しかし、『初等科理科』は予定どおり編集されたが、『自然の観察』は五冊で、第一・第二学年用は各二冊であるが、第三学年用は一冊である。『高等科理科』は第一学年用の「一」のみ発行され、第二学年用の「二」は発行されなかった。
理科の教科書にも戦時色が侵入しており、例えば『初等科理科三』(第六学年用)には、潜水艦・軍艦・戦車などの写真が教材として活用され、「タコト飛行機」では、「ワガ国が大東亜ヲ守り、太平洋ヲ制シテ行クニハ、飛行機ヲ使ワナケレバナラナイ。コレカラハ長ク飛ビツズケルコトノデキル、速イ飛行機ガ必要デアル。私タチハモット勉強ヲシテ、ヨイ飛行機ヲ工夫シヨウデハナイカ」と呼びかけている。当時、理科教育において「科学的精神」とか「科学する心」の養成ということがしきりに強調されたが、それも結局は、戦争への要請に支えられたものであった。
このようにみてくると、国民教育の基底をなす国民学校の教育は、教科によって戦時色の度合いに多少の違いはあるにせよ、全体として「皇国民錬成」に向かっての戦時版教育であったことには間違いなく、教科書はそのことを如実に証明している。