北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第3節 食糧増産時代の北本

6 市町村合併と農業団体の統廃合

難産の北本町農協合併
合併作業はまず昭和三十六年四月十七日の北本町農協合併協議会の設立からスタ—卜した。第一回合併協議会は、初顔合わせのため、会長(町長)、副会長(両農協組合長と互選による計三名)の選出と基本方針の確認に終わったが、同年十二月二十六日の第二回合併協議会では、中丸農協から賛成決議済みの報告が、また石戸農協からは組合員の七~八割がすでに賛成の意向である旨(むね)の報告がなされ、合併作業は順調に進展するかにみえた。もっとも、賛成者の考え方は一部青年層の積極的な推進意向を除けば、合併のメリットを十分理解しないままに国・県の方針だから受け入れてもよいという曖眛(あいまい)なものが主流のようであった。
ところが、昭和三十七年二月七日の第三回合併協議会で石戸農協からアンケ—卜の結果「賛成二ニ一(三十二パーセン卜)、反対四三〇(六十二パーセント)、不明八十八(六パーセント)」が報告され、当初の予想とはうらはらに合併作業は大きな暗礁(あんしょう)に乗り上げてしまった(現代No.八十)。予想外の事態に直面し、合併協議会の審議は混乱状態に陥(おちい)ったが、最終的には浦和農林事務所長や一部協議会メンバーの主張する「反対理由の究明」案に対して、協議会会長等の「一定の冷却期間を置いてから合併に踏み切りたい」という意見が埼玉県農政課長等の支持を得て採択され、ひとまず決着をみることになる。石戸地区農家の合併反対論ないし時期尚早(しょうそう)論の根拠は、昭和二十六年八月及び同十二月に行われた農協合併のための集落別座談会や、昭和三十七年八月二十二日の第四回合併協議会での話し合いの内容から推定すると、石戸農協は健全経営農協だから、いまさら米・麦、肥料取扱業者の影響力が大きく、その分、農協利用度が低く経営内容にも問題がある中丸農協と合併するのは必ずしも得策(とくさく)ではない、という考え方が根底にあったようである。
「冷却期間を置く」という結論を出した第三回合併協議会開催後、約半年を経た昭和三十七年八月二十二日に第四回合同協議会が開かれ、合併先進地の毛呂山(もろやま)農協の視察を決定し、翌九月十八日に現地視察が実施された。
その後、さらに三か月を経過した十一月九日の第五回合併協議会で、石戸・中丸両農協の臨時総会開催が決定される。これに従って十一月二十四日に石戸農協臨時総会がセットされたが、法定数に達せず流会に終わった。一方、十一月二十五日の中丸農協臨時総会では、合併は既定方針どおり可決された。このため、合併協議会の肝煎(きもい)りで昭和三十八年一月二十一・二十二日の両日を費(ついや)して、第三回目の石戸地区集落別座談会が開かれ、合併の実現に向けて関係機関による懸命の努力が試みられた。こうした努力が実って満一年後の昭和三十九年一月十八日、石戸農協臨時総会はようやく合併問題を可決するに至った。
埼玉県農協合併促進委員会も、早速これを受けて翌二月二十九日付で合併計画書の承認を行い、ここに北本町農業協同組合の成立をみる運びとなった(現代No.八十二)。思えば、北本町農協問題は、基準日を昭和三十六年三月三十一日、合併の時期を同年十一月一日と定めた当初の合併進度日程に比べると、あまりにも長い合併実現への道程(みちのり)であった。

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