北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第3節 食糧増産時代の北本

7 北本の農業の特色 ―台地と谷津田ー

摘(つ)み田(た)
大宮台地にはふたつの特色ある農家の営みがみられた。ひとつは台地上の畑で行われたドロツケがあり、もうひとつは、『市史民俗』P一五九に詳述されている谷津田の摘み田であった。
摘み田とは、大宮台地と荒川対岸の武蔵野台地一帯の谷津田で行われてきた米作法である。もともと台地を刻む谷は確たる用水源をもたない天水田(てんすいでん)が多い。そこでは、水田は常に湿田状態にしておかないと田植もできない。排水不良の湿田だから足腰まで沈み、稲作作業は難渋(なんじゅう)をきわめた。そこで水田に丸太を並べてその上を移動しながら、肥料とモミ種をひと摑(つか)みずつ田に落としていく。いわゆる直播(じかま)き方式である。秋の収穫期になっても湿田状態はそのままであるから、ひどいところでは摘みとった稲穂を田舟に積んで、泥田を移動しながら収穫をしなければならなかった。
最近、台地上の都市化が進み、水源を養う機能を持つ平地林が開発されたために、台地を刻む谷は大雨が降ればいつきよに水が流下し、日照りが続けばたちまち湧水(ゆうすい)は(か)涸れ、水田として利用できなくなったものも多い。そのうえ、まとまった面積をもつ摘み田地域では土地改良(暗渠(あんきょ)排水)が行われ、揚水ポンプで水利の便を図るようになったため、今では北本を含む大宮台地で摘み田を見かけることはなくなった。

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