北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

文治五年(一一八九)七月十九日
源頼朝は、奥州の藤原泰衡攻略のために鎌倉を出発する。武蔵守平賀義信・三河守源範頼・吉見頼綱・安達盛長・足立遠元・三尾谷十郎・高鼻和太郎らが従軍する。

66 吾妻鏡 文治五年七月十九日条
十九日丁丑、巳尅、二品(1)為征伐奥州泰衡(2)発向給、此刻、景時(3)申云、城四郎長茂(4)者、無双勇士也、雖囚人、此時被召具、有何叓哉云々、尤可然之由被仰、仍相触其趣於長茂、々々成喜悦、候御共、但為囚人差旗之条、有其恐、可給御旗之由申之、而依仰用私旗訖、于時長茂談傍輩云見此旗、逃亡郎従等可来従云々、御進発儀、先陣畠山次郎重忠也、先疋夫八十人在馬前、五十人々別荷征箭(5)三腰(以雨皮裏之)三十人令持鋤鍬、次引馬三疋、次重忠、次従軍五騎、所謂長野三郎重清、大串小次郎、本田次郎、榛沢六郎、柏原太郎等是也、凢鎌倉出御勢一千騎也、次御駕、(御弓袋差、御旗差、御甲着荐等、在御馬前)自鎌倉出御御供輩
武蔵守義信遠江守義定参河守範頼
信濃守遠光(中略)
吉見次郎頼綱(6)南部次郎光行平賀三郎朝信
小山田三郎重成同四郎重朝藤九郎盛長
足立右馬允遠元土肥次郎実平(中略)
海老名四郎義季所六郎朝光横山権守時広
三尾谷十郎(中略)
成田七郎助綱高鼻和太郎(7)塩屋太郎家光
阿保次郎実光(後略)
〔読み下し〕
66 十九日丁丑、巳尅(みのこく)二品、奥州の泰衡を征伐せんがため発向し給う、この刻(みぎり)、景時申して云わく、城四郎長茂は、無双の勇士なり、囚人といえども、この時召し具さるるは、なに事かあらんやと云々、もっともしかるべきの由を仰せらる、よりてその趣(おもむき)を長茂に相触れる、長茂喜悦を成し、御共に候う、ただし囚人として旗を差すの条、その恐れあり、御旗を給わるべきの由これを申す、しかして仰せにより私の旗を用いおわんぬ、時に長茂傍輩に談じて云わく、この旗を見、逃亡の郎従等来り従うべしと云々、御進発の儀、先陣は畠山次郎重忠なり、まず疋夫八十人馬前にあり、五十人は人別に征箭(そや)三腰(雨皮をもってこれを裏(つつ)む)を荷わせ、三十人に鋤鍬を持たしむ、ついで引馬三疋、ついで重忠、ついで従軍五騎、いわゆる長野三郎重清、大串小次郎(重親)、本田次郎(近常)、榛沢六郎(成清)、柏原太郎等これなり、およそ鎌倉を出で御う勢一千騎なり、ついで御駕(御弓袋差、御旗差、御甲着等、御馬前にあり)鎌倉より出で御う御共の輩(ともがら)
〔注〕
(1)源頼朝 文治元年(一一八五)に従二位(二品)に昇叙し公卿になった。「品」は本来は親王の位階であるが臣下の場合にも尊称として用いられる。
(2)藤原泰衡 秀衡の子で、淸衡に始まる奥州藤原氏の棟梁。同氏は陸奥国平泉(岩手県平泉市)を本拠に、陸奥・出羽両国を支配下に置き、清衡・基衡・秀衡の三代にわたり独自の勢力を保っていた。
(3)梶原景時 桓武平氏良茂流鎌倉氏族の出身で、相模国梶原郷(神奈川県鎌倉市)を本貫とする。頼朝の側近として重用され、侍所所司(次官)となる。
(4)城氏は桓武平氏維茂流の出身で、越後国沼垂郡(新潟県新発田市等)を本拠とし、同国最大の豪族。長茂は治承・寿永の内乱で平氏方に与した。
(5)戦闘用の矢のこと
(6)吉見氏は吉見郷(吉見町)を本貫とするが、出自は不詳。後、源範頼の孫為頼が外縁で吉見氏を名乗り、この子孫が吉見氏を称する。
(7)実名不詳 高鼻(高鼻和・髙埇)氏は高鼻郷(大宮市高鼻等)を名字の地とすると思われるが、不詳
〔解 説〕
平家を滅ぼし、鎌倉に幕府を発足させた頼朝の次の目標は、奥州藤原氏の征圧であった。逃亡中の異母弟義経が平泉に亡命したのを口実に、泰衡への圧力を强め、本年閏四月、義経が泰衡に殺されたにもかかわらず、遂に奥羽両州へ東海・東山・北陸三道より侵攻した。本史料は、頼朝が大手たる東山軍を直率して鎌倉を出陣した記事である。先陣は武蔵国最有力氏族である秩父氏の嫡系畠山重忠が務めた。重忠に従う五騎の中に、大串重親もいた。さて、頼朝に従軍したのは一千騎で、『吾妻鏡』には、武蔵守平賀義信を筆頭に、一四四人の歴名が載せられている。三番が三河守源範頼と、最初は源氏一族が続き、ついで三浦義澄等の有力御家人となる。三十三番が吉見頼綱で、小山氏等の秀郷流大田氏族に続いて記されており、頼綱はその縁者か、おそらく養子であったろう。三十八・九番と安達盛長・足立遠元が続き同族であることを示唆している。後半に入ると各国の中小御家人が続き、百二十番に三尾谷(水尾谷)十郎、百三十四番に高鼻和太郎と、市域周辺の御家人が見られ、武蔵国の中小御家人が集団をなしている。かくて、頼朝直率の大手軍は、武蔵国勢を主力として奥州に侵攻し、奥州軍の防衛線たる厚樫山(福烏県国見町)を突破し、東海道軍と合流した後、平泉を陥落させ、九月三日、泰衡を滅ぼし、翌四日、陣岡(岩手県紫波町)に全軍が結集した。ここに奥州藤原氏は滅亡し、武家棟梁源頼朝を首長とする鎌倉幕府の勢威が、南は貴海島(鹿児烏県奄美群島)から北は外ヶ浜(青森県津軽半島西北部)まで、六六か国全体に始めて及ぶことになる。

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