北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

建久六年(一一九五)七月十六日
源頼朝は、武蔵守平賀義信の国務成敗を賞して、国衙在庁に壁書を置かせる。

72 吾妻鏡 建久六年七月十六日条
十六日戊戌、武蔵国務事、義信朝臣成敗、尤叶民庶雅意之由、就聞召及、今日被下御感御書云々、於向後国司者、可守此時之趣、被置壁書於府庁云々、散位盛時奉行云々
〔読み下し〕
72 十六日戊戌、武蔵国務の事、義信(平賀)朝臣が成敗、もっとも民庶の雅意に叶うの由、聞こし召し及ぶにつきて、今日御感の御書を下さると云々、向後(きょうこう)の国司においては、この時(例カ)を守るべきの趣、壁書を府庁に置かると云々、散位盛時(平)奉行すと云々
〔解 説〕
再度の上洛を終えた源頼朝は、帰路、遠江・駿河・伊豆国において庶務を行った。いずれも幕府支配下の東国に属する国々である。七月八日、鎌倉に帰還した。本史料は、武蔵国の国務に関するものである。史料59で述べたように、当国は関東御分国で平賀義信が国守である。本史料に見るように、この関係が本年までも継続しており、義信の国守は、名国司でなく、庶務執行権を持つ国務であった。彼の国務が民意に適うと、頼朝の賞讚をうけ、今後の手本として国衙在庁にその旨が壁書に掲げられたのである。このように、頼朝の時代の武蔵国の行政は信濃源氏の平賀義信に担われたのである。また、彼の嫡子大内惟義も相模守であり、親子で幕府の最枢要国の国司を務めた。

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