北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

建久六年(一一九五)三月十日
源頼朝の東大寺供養参列に、足立遠元・安達盛長・笠原親景・吉見頼綱・仙波信恒らが従う。

71 吾妻鏡 建久六年三月十日条
十日乙未、将軍家為令逢東大寺供養給、着御于南都東南院、自石清水、直令下向給云々
供奉人行列
 先陣
  畠山二郎
  和田左衛門尉各不相並
 次御随兵、三騎相並、各家子郎従同著甲胃、列傍路、其人数所随合期也、
  江戸太郎大井次郎品河太郎
  豊嶋兵衛尉足立太郎江戸四郎
   (中略)
 将軍御車
   (中略)
  土肥荒次郎足立左衛門尉比企右衛門尉
  藤九郎宮大夫所六郎
    已上狩装束
 次御随兵  三騎相並家子郎等事同先陣
   (中略)
  笠原十郎(1)堀藤次大野藤八
   (中略)
  安西三郎平佐古太郎吉見二郎
   (中略)
  仙波太郎岡辺六野太鴛三郎
   (中略)
 後陣
  梶原平三
  千葉新介 各不相並 具郎従数百騎
 最末
   (後略)
〔読み下し〕
71十日乙未、将軍家(源頼朝)、東大寺供養に逢わしめ給うがため、南都東南院に着き御う、石清水より、直に下向せしめ給うと云々
 供奉人行列
 先陣(略)
〔注〕
(1)笠原親景 笠原氏は埼玉郡笠原郷(鴻巣市笠原)を名字の地とする野与党出身者である。ただ、親景がこの野与党笠原氏の出か否かについては確証がない。
〔解 説〕
本史料は、源頼朝が東大寺再建落慶供養参列を名目に二度目の上京をした時、源氏の氏神石清水八幡宮から奈良に入った記事である。最初の上洛(史料67参照)と同様に、勢々たる行列を組み東大寺東南院に入った。先陣に恒例の畠山重忠と侍所別当和田義盛、前随兵に各番三騎ずつの四十一番百二十三騎、頼朝自身、狩装束衆六番十六騎、後随兵に四十一番百二十三騎、後陣に侍所所司梶原景時と千葉胤政、最末の水干衆は五番十一騎の堂々たる行列であった。最初の入洛行列の時と異なり、国司級の源氏一族が狩装束衆の先頭に配置されているように、今回の行列では序列がはっきりとし、また血縁・地縁関係を考慮して編成されている。さて、前随兵の二番に足立親成がおり、七番まではすべて武蔵国の御家人である。狩装束衆の五番に足立遠元・比企能員、六番に安達盛長が入り、彼等の幕府内部における序列の高さ、すなわち有力御家人たることを示している。後随兵の二十一番に笠原親景、二十五番に吉見頼綱、そして三十五番に仙波信恒が列している。信恒の前後も武蔵国の御家人が集中している。十二日、治承・寿永の内乱で平氏に焼打された東大寺は、再建落慶供養を後鳥羽天皇の臨席の下に挙行し、頼朝は大檀越として面目を施したのである。

<< 前のページに戻る