北本市史 資料編 古代・中世

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第4章 参考資料「記録・系図等」

4 新編武蔵風土記稿 〔大日本地誌大系・雄山閣〕

巻之四 建置沿革 鎌倉管領 戦国
【古戦録】曰、松山城を切取て中武蔵を平くへしと、多目大膳亮・塀和刑部少輔を先手として武蔵野の陣を払て松山城へ発向す、此城は扇谷宿老武州安戸城主上田左衛門大夫築て、家人難波田弾正左衛門を置けるか、此度の夜軍に上田又次郎政広も僅九騎にてはう々々松山へ籠けるか、南方の旗先を見て力なく足戸砦へ退、空城となりけれは小田原勢は手を拱て城に入、【上杉系図】に、五郎朝定四月廿日松山落城の時討死、廿二歳、按するに昨日河越寄手にありて討死せしなるへし、安戸は秩父郡、足戸は未考へす、松山城には塀和刑部少輔、河越城には大道寺駿河守、(系図に蔵人某に作る、駿河守政繁は某か子なり)を置、忍の成田鷹巣の小幡、皆小田原に属す、

    (中略)

【武蔵野紀行】の作あり、今芸文に出す、按するに勝沼は多磨郡青梅町辺西分村の古名なり、大沢庄は埼玉郡の属、太田信濃守資時松山城を襲取、幾程なく又小田原方にて取返し、上田又次郎政広を置く、(八月二十七日岩附太田信濃守資時、足戸の上田又次郎を語らひ、不意に夜討して松山を襲ふ、塀和希有にして河越へ走る、太田か家長太田下総守・広沢尾張守忠信を本丸に置、上田又次郎に二の丸を預て、皈程なく資時死す、舎弟美濃守資正所領を譲らる、北条此弊に乗て塀和・笠原・多米を大将として、毛呂・浅羽・岩本・横山・真野・北見・太田・牛込等を以攻ける、太田広沢よく防けれとも上田すかされて寄手を二の丸へ引入しにより、 広沢討死して又氏康持となる、旧主なれはとて上田ヘ城を預けられ、人質を小田原へ籠らる、十九年十二月、北条氏康自今以後関東にて永楽銭のみ通用の高札を建、

    (中略)     
    
【小田原記】(曰、其頃岩付の太田美濃守資正、輝虎の下知に依て、上田又次郎か籠りし松山の城を責取、上杉左衛門大夫憲勝を籠、己か同心被官二千余人籠城す、)小田原の当主北条左京太夫氏政、出勢して松山を攻、(氏政御出勢ありて松山を責らる、武田太膳大夫信玄も加勢として発向あり、十二月十一日より諸士相責、此城は昔上田左衛門築き後、難波田弾正要害を構、近年小田原より普請ありて嶮難なる構えなり、)五年三月松山城将、上杉憲勝と和して城を小田原方に請取、二月上旬謙信やう々々武州石戸に着て陣を取、勝式部少藕氏政の御前に参、輝虎既に五三里近所迄着陣仕候へとも、敵城には夢にも存すまし、某降人になりて城に入、大将をたましあつかひになし申さんとて夜にまきれて城に入、力を合せんと敵にまきれ参りたる由申、其後式部少朝越後の勢は、三月の末ならては人馬を出し難し、唯降参ありて懸命の地を安堵し給へと云、折節甲州の奉行人 飯富源四郎景仲持口へ使を遣し、一所の知行安堵偽なしと誓状を城中に申入、憲勝和談相済三月三日城を渡して出、氏政後に左衛門太夫憲勝に、都筑郡にて領地を与ふ、上杉左衛門太夫憲勝武州都築郡にて三百貫の領地を賜る、謙信松山に出張城既に落けれは怒て人質共を誅す、六日松山へ出張す城早落けれは輝虎立腹す、美濃守籠たる人数鉄炮玉薬兵糧の書付、幷憲勝の人質共を出して如此と申す、輝虎人質共誅伐す、謙信足軽を出して戦んす、武田北条衆取合す、次日卯尅より足軽を出し働かけゝれ共、武田方北条衆出合給はす、夜中に御勢を悉く打入給ふ、騎西城を攻落す、輝虎無念なり、此辺に敵城はなきかと問へば、私市の城に小田伊賀野守累代居住すと申、是小田原方と云にはあらね、と成田か弟なればとて、押寄一日一夜攻戦ひ悉く破却す、七月北条新太郎氏邦足戸の城を攻む、

【古戦録】曰、七月氏政の下知を受北条新太郞氏邦秩父鉢形の勢を率て、武蔵国足戸の砦へ押寄攻捕んと欲す、北越の毛利丹後守是を守り居たりけるか、克く防て寄手手負死人多く是非なく退散せり、前橋加勢の兵と鉢形衆上尾駅に戦ふ、十日前橋の加勢、足立郡上尾駅にて鉢形衆と行合一打す、宇佐神戦死、 六年十二月、太田新六郎康資江戸城に在て北条氏に怨を懐き、謀叛の企あり事露顕す、

巻之百十八 足立郡之十四 鴻巣領
〇上深井村 〇下深井村 深井村は、江戸より行程十一里を隔つ、鴻巣郷深井庄に属す、鴻巣宿の内宮地の百姓勘右衛門が蔵する系図を見るに、上州白井の城主長尾左衛門尉景春の男小四郎景忠の子に六郎次郎景孝と云るものあり、天正年中当村にて出生し在名を以て深井と称せり、其子を対馬守景吉と云、太田源五郎氏資に属し、上総三舟山の役に従ひしとき、太田氏資討死せしかば本意なく当所にかへり、民間に跡をかくし多くの田畑を開き、夫より世々こゝに土着せりと云、長尾系図及び上野の長尾の事を記せしものを閲るに、景春の子は景英にて其子を景誠と云ひ、景忠・景孝の名見えず、此景忠は景英が兄弟などにて、たま々々系図等にもれしものなるか、猶宮地旧家の条見合すべし、当村寛永六年伊奈半十郎検地せし頃は鴻巣の内とあり、其後正保の頃は已に一村立たれど、猶上下の差別はなかりしを、後何れの頃か分郷せしと見ゆ、元禄十五年の改には上下を出せり、境界弁別しがたし、因て上下を合せてこゝに記せり、村の広さ東西十一町許、南北十五町程、東は上谷村に隣り、南は宮内東間の二村及び小松原に接し、西も又小松原及び、上谷新田に境ひ、北は鴻巣宿と生出家村とにつヾけり、上の分は日下部権左衛門・同金三郎に賜はり、下の分も権左衛門が知行と村内寿命院預と入会り、上下を合せて民家四十八軒あり、村の中間を中山道貫けり、東間村より入りて上谷新田に達す、
 高札場東の方によりてあり、
 小名 堀之内東の方を云、古へ深井対馬守が居住せし所なり、一に対馬屋敷といふ、稲荷窪
  石戸 松ノ木 田代 外山 さつき山 西第六天権現堂 飯島

    (中略)

寺院 寿命院新義真言宗、京都智積院末、殿林山金蔵寺と号す、古は持明院と云ひしが、天正年中御朱印十石の寺領を附せられし頃より、今の院号に改めしと云、開山円俊文明年中示寂、其後深井六郎次郎景孝中興せりと云、墓所に石碑あり、金蔵院性水理道居士天文二年四月三日とえれり、又其子対馬守景吉の碑を其傍にたつ、瑞信院敬洞道居士慶長十六年二月十一日卒せり、此余代々の碑をたつ、是前にもいへる如く、宮地の百姓勘右衛門が先祖なれば、其条下を照し見るべし、本尊大日を安ぜり、

巻之百四十八 足立郡之十四 鴻巣領
〇上宮内村 〇下宮内村付袖跡新田

旧家 彦兵衛 大島氏にて代々内藤某の里正を務む、家系を伝へたれど、破裂せる所有て、全きものにはあらず、其内大膳亮久家なるものあり、本国伊豆を領して大島に住し、永正・大永の頃小田原北条に属して武州に住し、屢勲功あり、 由て永禄七年甲子の感状を賜へるは後に載す、其外鎗二筋を持伝へり、是も後に載す、且其頃は鴻巣領宮内村に居住せりと、久家子なくして土佐守善久の三男を養子とす、是を大膳亮重富と云、岩槻城主太田十郎氏房に従へり、御入国の後大島大炊介及び大膳亮・矢部新左衛門・同兵部・小川図書等の五人帰国御暇の書を賜はれり、其書は大炊介が子孫勇蔵が家に蔵せり、猶後の条照し見るべし、
任申其方別(刷)之村拾貫文之所いたし候、いかにもけんみつ可被為走廻事肝要候、為後日如此、恐々謹言、
  甲子三月廿四日
            越前守資為(花押)
       大島大膳亮殿
勇蔵( 是も大島氏にて旧家なり、前に載せたる彦兵衛が本家なりと云、系図等はつたへず、文書五通あり、左にのせり、
 当郷打明之事、其方深井致談合可為開候、郷中百姓等無兎角可為入籠也、
  永禄二年己未(朱印)三月廿四日  花押
       大島大炊助殿
 


其方宮内村以上十貫五百文相出候、於此上厳密に可被為走廻事肝要候、為後日一筆仍如件、恐々謹言、
  永禄八年乙卯月吉日
          河目越前守資好(花押)
       大島大炊助殿
 


  追而書なし
不作之所従当年五年荒野ニ相定候間、何も精を入開発可有、無申迄候得共、近年之開に不待合様ニ被致之儀肝要に候、仍状如件、
  天正五年丁丑三月十一日
            助次郎(花押)
       鴻巣宮内百姓中
 


  以上
汝等五人之事、如前々在所へ令退住耕作以下可申付候、若兎角申者於在之ハ、此方へ可申来候也、
  六月一日
            浅野弾正長吉(花押)
     武州足立郡鴻巣郷
         大 島 大炊助
         大 島 大膳助
         矢 部新右衛門
         矢 部 兵 部
         小 川 図 書
        以上五人遣之
 


 尚々能杉なへ給候、かたじけなき次第事候、
以前者御自身此方御出候而、杉御うへ候而被下候、其以後土かけ申候ハヾ結句今夜雨ふり候間、能々つき可申候、内々自分御礼可申候得口、無隙故使僧を以申候、散々候へ共抹茶遣之候事候、恐々謹言、
 十月五日         不識(花押)
            勝願寺
     大島与四郎殿御宿所

巻之百四十九 足立郡之十五 鴻巣領
〇下中丸村
 太田社 里正幸左衛門が宅地にあり、相伝ふ彼れが祖先は岩槻太田氏の臣にて、天正十八年没落の後当所に土着し、太田氏の霊を祭りし社と云、土俗をたい権現と唱ふ、今は廃して未だ再建に及ばず、
 寺院 安養院 新義真言宗、下深井村寿命院末、瑠璃山と号す、本尊歓裡天は秘して見ることを得ず、前に観音を置り、開基は村民幸左衛門が祖先とのみ伝へて、其名は失ひたれど、境内に石碑二基あり、一は表面に善徳院殿賢翁浄國居士永禄七甲子七月十四日、又安養院殿蘭室妙見大姉天正十年七月廿四日とえりて、左に小池長門守久宗右に加藤安芸守娘と彫たり、一は表に明雲院殿月菴宗安居士慶長四年己亥八月四日、脇に加藤修理亮宗安とみゆ、二基ともに近き比村民幸左衛門が分家、源右衛門再造せりと云、彼長門守修理亮二人ともに太田氏の臣なりと云按に当院の号は長門守久宗が室の法名なれば、彼室当院を開基せしにや、幸左衛門は小池氏なりしが、故有て母方加藤氏に改たるよし伝れば、修理亮宗安は小池長門守久宗が子にて、幸左衛門が祖先なりし成べし、
 旧家 幸左衛門 加藤氏なり、先祖は小池長門守が二男加藤修理亮宗安なる由、長門守は岩槻城主太田氏の臣なりしが、彼家没落の後長男ほ鴻巣宿に土着す、今の小池三太夫の祖先なり、二男は当所に住し、故有て外戚加藤氏をもて此家の氏とせり、則鴻巣七騎のーなりと、されど近来殊に零落し、家系及所蔵の記録を失ひ、今は朝夕の烟さへかすかに立るさまなれば、総てのことしるべからず、

巻之百五十一 足立郡之十七 石戸領
〇石戸宿村付持添新田
 阿弥陀堂 小名堀ノ内にあり、相伝へて此地蒲冠者範頼の住居の地とも、又石戸左衛門尉の居跡なりともいへり、縁起の略云源範頓故ありて当国石戸郷に配流せられ、土俗これを石戸殿と称せり、然るに其息女亀御前病に罹りて、正治元年七月十二日卒しければ、黄葉妙秋大姉と諡し、追福のために法誉和尚を請して一宇を創建し、西亀山無量院東向寺と呼ぶ、則此堂なりと、されど此縁起は寛政年中好古者のしるせしものにて、もとより拠とすべきことなし、又高尾村泉蔵院も西亀山無量院と号し、石戸氏の女の追福の為に創せし寺なる由いへば、とにかく故あることゝ見えたれど、其詳なること今よりは考ふベからず、弥陀は坐像六寸、行基の作なり
 五輪塔 老樹ノ樹下にあり、台石もなく文字も漫滅して読得ず、土人の伝へに蒲冠者範頼正治二年二月五日、此地に於て自尽せし印の塔なり、法名厳大居士と号すと、又云さにはあらず、石戸左衛門尉の印なりと、按に範頼の葬地は久良岐郡六浦太寧寺にあり、法名太寧寺殿道悟大禅定門建久四年八月生害ありし由をいひ、【東鑑】建久四年八月十七日の条に参河守範頼朝臣伊豆国に下向せらる、狩野介宗茂・宇佐美三郎祐茂等預り守護する所なり、帰参其期有べからず、偏に配流の如云云と載たれば、当所を範頼が葬地と云は妄誕なること勿論なり、されど【吉見系図】に範頼の男阿闍梨範国当国に居し事見ゆ、元より吉見氏は横見郡吉見に住せし人なるべければ、此辺も彼吉見氏の所領にして、後年子孫のもの彼が追福の為に建し塔なるも知るべからず、又石戸左衛門の碑なりと云は、地名に依てもさもあるべく聞えたり、何れ故ある墓なるべきなり、
 桜樹 堂に向て右にあり、高さ三丈余、枝さし覆へる、径り凡十五間余、白花にして単弁なり、根の盤りたる処に、貞永・弘安・永正・文応等の古碑及文字も読得ざる、断碑五六基狭入れり、其様樹根より生ひ出たる如し、相伝ふ範頼此地に住せしとき、手自から植し樹なれば蒲桜と号せりと、されど範頼此地に住せしこと疑ふべきは前に弁せし如くなれば、全く事を好むものゝ云始たる説なるべし、さはあれ珍らしき老桜なり、
    (中略)
 城蹟 広さ四町許、今は陸田となりて僅にから堀の跡残れり、西は荒川を帯び、東より北へ亘りては深田にして、南の一方のみ平地に続けり、元禄十六年地頭牧野某検して高入の地となれり、昔天神山の城と唱へ、扇谷上杉氏の家人八右衛門と云人居りし所なりといへり、

巻之二百 埼玉郡之二 岩槻領
〇岩槻城城下町 (前略)按に古戦記等に、太田道灌江戸河越岩槻鉢形等九ヶ所の城郭を取立て、長禄元年三月朔日経営なると、後太田美濃守資頼当城にありし時、家人渋井三郎といひしものひそかに、北条左京大夫氏綱にかたらひ内応せしかば、大永五年北条勢攻囲みしにより、城主資頼もふせぎかねて、二月六日に城落いれり、此時城兵三千余人討死し、資頼は石戸へ引退く、(足立郡石戸に古城址あり、その所か)、其後享禄四年の九月、資頼再び軍勢を催し当城を攻けるに、此度は渋井三郎もふせぎかねて見えしが、廿四日終に討死す、よりて又資頼が持城となれり、天文二年其子信濃守資時に譲り、其身は世を遁る資時もいく程もなく卒しけり、かくて美濃守三楽この城を守り、しぱゝゝ北条左京大夫氏康と戦ふ、其子大膳亮氏資に至り、父にそむきて北条氏康に属す、三楽こゝにたまりかね、城を出て常州に趣き、佐竹左京大夫義昭に客居す、氏資卒して子なければ、北条氏政の次男十郎氏房に、太田の氏を名のらせ、此城に居らしむ、

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