北本市史 資料編 近代

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第3章 北本の教育

第1節 近代教育の成立

江戸時代末、県内には多数の寺子屋が存在し、市域でも幕末から明治初期にかけて五か所の寺子屋があり、庶民の日常生活に必要な知識が伝授されていた。
明治維新後、政府は、新しい近代国家を建設するために政治・経済・軍事面等の全般にわたって様々な新政策を打ち出した。
このような中で、教育面では、国民皆就学を意図して、明治五年(一八七二)にフランスの教育制度を模範とした「学制」が頒布された。その内容は、学区・学校・教員・生徒及び試業・学費の事などであり、我国に近代的な教育制度を設けようとする画期的なものであった。
これにより、全国が八大学区に分けられ、さらに一大学区が三二中学区、一中学区が二一〇小学区に分けられた。埼玉県はすべて第一大学区に属し、市域は、その内の、第十一番・第十三番中学区に属した。また、小学校の設置も令せられ、資料169のように、市域においては、明治七年までに、石戸(11番中学区・210番小学区、以下同様)・高尾(13—
196)・中丸(11—191)・宮内(13—191)の四つの公立学校が設置された。これらの学校は、他地域と同様に廃寺跡や寺院を仮用したものであった。
財政面については、「教育ノ設ハ 人々自ラ其身ヲ立ルノ基」という立場から受益者負担を原則とした。そのため、石戸小学校のように授業料を滞納する生徒も出る状況であった(資料163)。さらに、資料164・167・168のように、村民には、学区内での集金や臨時の出金が課されたため、その負担は相当なものであった。
埼玉県では、明治八年から「本支学校々費定額規則」を定め、生徒数に応じて小学校を一等校から六等校に区分し、学費の配分を合理化した。資料168の「五等高尾学校」とは、その意味である。
こうした教育費の負担は、学制の理念とは別に、村民の家計を圧迫し、低就学率の原因ともなった。資料165・166は、高尾学校の学区である荒井村・原馬室村の学齢人口調査の結果であるが、これによると、両村の学齢児童の就学率は、どちらの村も約三〇パーセント前後であり、特に、女子の就学率は極めて低率であった。
県全体の就学率は、明治八年で、約三六パーセントであったので、県は「不就学督促法」を公布し、就学の督促に努めたが、当時、まだ生計を支える重要な労働力であった児童の就学率は、なかなか上昇しなかった。
明治十年代に入ると、就学児童数の徐々の増加や校舎の老朽化等の理由から、各地で校舎の新築が行われるようになる。市域においても、明治十一年に高尾学校が氷川神社東に新築された(資料170・171)。資料172は、その際の諸費用の内訳を示している。
以上述べてきたように、学制は近代教育成立の出発点として大きな意義をもっていたが、その主な内容は、欧米にならったもので、日本の実情にあわなかったため、政府は、明治十二年、自由主義・地方分権主義を方針とする「教育令」を発布した。特に就学義務については、学制下の八か年を十六か月以上の就学で可とするなど就学義務年限の大幅な短縮がみられた。
ところで、学制下の学区は、人口数から算出されたため、町村行政区域とは一致せず、さまざまな点で不便を伴った。そのため、明治十四年、文部省の命をうけた埼玉県は、各郡長に学区調査心得を達し、管内の学区を画定させた。資料174は、その結果を示しており、市域は、第三十三〜三十六小学区に属した。
資料173は、当時の中丸学校の校費予算であるが、収入の部での協議費の割合の高さが特徴となっている。
明治十年代は、前述の、「教育令」に続き、翌十三年の「改正教育令」、十八年の「第三次教育令」というように様々な教育制度の刷新が試みられた。就学率は徐々に延びているとはいえ、女子はなお、低率であった。資料175は、この頃の高尾学校の出席調査の統計であるが、出席率の低調であったこと等が読みとれる。
また、明治十六年には、北本宿村に楳林学校が設立され、多くの寄付者があった。その中に資料178のように寄付の返礼として木盃を下賜された人もいた。
一方、私塾については、学制頒布以来、公立学校の振興を図る意図から、簡単に許可されなかったが、宮内学校に奉職していた滝沢海三氏は、その熱心な指導のもと、資料176のように、自宅において漢学を中心に教授し、市域はもとより、桶川・川田谷方面からも子弟が通ったといわれる。その功績は、宮内氷川神社にある「寿蔵碑(滝沢翁碑)」に刻まれている(資料190)。

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