北本市史 資料編 近代

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 近代

第4章 社会生活と文化

第1節 社会生活

1 消防・兵事・警察・郵便等
ア 消 防
明治初期の県内の消防組織は、江戸時代にならい各宿村ごとに自警的な火消組が置かれており、統一されたものではなかった。県では明治十九年(一ハ八六)十二月「消防組編成規則」を定め、消防組は警察署又は分署所轄内で、一町村一組または数組を編成し、名称はその町村名を冠すること、組員は原則として十七歳以上四十五歳以下とし、組編成は所籍署を経て県庁に届け出て認可を受けることとされた。消防組の諸費用はすべて村内戸別割で賄われ、組合員の負傷や死亡に対する療治料及び弔慰金は村内協議費をもって支出することも定められていた(資料233)。その後、明治二十七年政府は消防体制を全国的に画一化する目的で、勅令をもって消防組規則を公布した。その趣旨は、消防行政の全国統一化と私設消防組の廃止にあった。設置区域は市町村単位に設けられ、消防組の指揮監督権は、警察権を持つ知事にあったが、実際には管轄警察署長がこれにあたった。ただし消防組の経費は、私設当時と同じく各市町村の負担とされた(資料234・235)。
イ 兵 事
明治五年の「募兵の詔」に基づき、翌六年一月に発布された徴兵令は、明治政府による近代国家建設の重要なー礎石であった。県ではこれを受けて同年一月十日布達を発し、二〇歳に達した男子を、各区ごとに調査して県庁に差出すべきことを命じている。徴兵令の狙いは国民皆兵主義にあったが次のような免除や代人を認める兵役免除規定が設けられていた。(1)戸主やその相続者、(2)犯罪者、(3)身体未発達の者や病弱者、(4)官吏や所定学校の生徒、洋行修業者、陸海軍学校生徒など、(5)代人料二七〇円を上納する者(資料237)。これからもわかるように実際徴兵されたのは一般庶民の二・三男がほとんどであった。そこで徴兵忌避のための養子縁組による相続や、眼疾のための免役願いが多数出された。徴兵検査以後の壮丁の営前教育や予備役・後備役の教育を行なう組織として各地の兵事会があり、明治二十二年の徴兵令改正後は徴兵慰労義会支部と提携して事業がおこなわれた。会員の資格は戸主で、慰労の内容は金穀・物品の贈与並びに敬礼等であった(資料238)。
ウ 警 察
明治四年に成立した埼玉県では、管内の地域を二四区(明治八年以降は二五区)に分けて、区ごとに御用取扱所(のち区務所と改称)を置き、区長を戸長・、村長を副戸長として区内一切の事務を管掌させ、治安維持・警察事務も区の事務とされた。のち明治六年四月には警察事務は分離され「警察附属屯所」を新設し、そこで取扱わせることとした。
明治六年十一月内務省が新設されると、わが国の警察は司法省から内務省による行政警察へと移行した。同八年三月、行政警察規則が制定されたが、司法警察にくらベると、犯罪の事前予防と国家の治安維持に重点がおかれた。同八年十二月「警察出張所及屯所の設置基準」が定められ、警察出先機関の全国統一がはかられた。県ではこれに基づき、同九年一月、従来の警察出張所を警部出張所と改称して五か所、警察屯所を巡査屯所と改称して二三か所、別に巡査分屯所五か所を設置した。この時市域は第十七区鴻巣宿巡査屯所と第十八区桶川宿巡査屯所に属した。その後幾度かの名称や所轄の変更があったが、明治二十二年の市制町村制施行に伴い、警察区画も改定され、石戸村は桶川警察署、中丸村は鴻巣簪察署の管轄となった。明治三十五年に郡制がしかれると、県下の警察は九警察所一七分署となった。大正十二年には大宮分署が浦和警察分所から分離独立し、それに伴い石戸村はその管轄下となった(資料246・247)。一方、地域が発展すると広範囲にわたる事務の処理と、遠隔地における監督の必要上から派出所の設置が住民から請願されるようになった(資料248)。
工 郵便等
飛脚にかわる近代的な郵便制度は明治四年三月、東京・京都・大阪の三都間に駅逓司の手によって開始された。翌五年二月改正増補郵便規則が定められ、同年七月北海道の一部を除き国内全般に郵便法を施行した。この時県内の旧宿駅にはじめて郵便取扱役所が設置され、郵便扱人がおかれた。これら郵便取扱役所の多くは旧伝馬問屋があてられた。これより先、駅逓司は東京・高崎間 に民間会社が馬車の運行を計画していたのを援助し、官営の郵便物の逓送配達を委託することにきめ、社名を中山道郵便馬車会社と称して、明治五年五月から東京・高崎間に郵便馬車の定期運行が開始された。その後、明治十六年六月に上野・熊谷間の鉄道が開通し、郵便物は馬車輸送から鉄道輸送に変わり、馬車会社は衰滅の運命をたどった。一方同年七月には一般人の郵便の利用を図るため、官省の公布文書及び県庁よりの布達・指令等の下達文書や一般の人々から官公庁宛の願書・伺・届等の上申書類についても、すべて郵便で発送するようになった。このほか県内の郵便線路へ定期的に郵便を逓送する道順の整備や、集配回数の増加等の改善がはかられた。その後郵便取扱所が三里以上離れている不便な地域については、村の副戸長宅や保長宅で認可手続をとれば郵便切手の販売ができるよう定められた(資料250・251・252・253)
わが国で電信業務が開始されたのは明治二年八月で、横浜灯明台役所~横浜裁判所間に架設され、官用電報を扱ったのが最初である。政府は中央集権化を急ぎ中央と地方との連絡を密接にするため、全国を結ぶ電信網の強化・整備に力を注いだ。同八年までには東京~青森間の電信業務を開始し、次いで同十年東京~新潟間の電信線が架設され、浦和、熊谷にはじめて電信分局が設置された(資料249)。
わが国における一般の電話利用は、明治十二~三年東京、横浜の市内と両市間の通話開始が始めである。県内 では同二十九年十二月北葛飾郡桜井町役場と北葛飾郡役 所に設けられた私設電話が最初である。次いで明治三十三年には県庁内の警察本部と県下の各警察署間に、翌三十四年には各分署との間に警察電話が開通した。その後電話局設置の希望は増加する一方であったので逓信省は明治三十五年七月に「特別電話加入規則」を制定し、加入申込本人の負担による制度が取り入れられた。大正十 一年(ー九二ニ)、この特設電話も一般の普通電話に切りかえられることとなった(資料254)。

<< 前のページに戻る