北本市史 資料編 近代

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第4章 社会生活と文化

第1節 社会生活

6 戦時下の生活
昭和十二年七月七日、中国北京郊外の蘆溝橋で突発した日中両軍の交戦に端を発し、両国国交は極度に悪化しついに日中全面戦争に発展した。この間同十二年九月第一次近衛内閣は軍需物資以外の制限と内需を抑制して輸出を奨励する目的から戦時三法といわれる「輸出入臨時措置法」「臨時資金調達法」「軍需工業動員法」の統制法を布告し、翌十三年には国家による国民統制の根本となった『国家総動員法』・を公布した。政府はまた国民の総力を戦時体制に結集させるため、昭和十二年八月二十日の閣議で「国民精神総動員実施要綱」・の採用を決定した。これによると「凡ソ難局ヲ打開シ、国運ノ隆昌ヲ図ルノ道八、我カ尊厳ナル国体二基キ、尽忠報国ノ精神ヲ益々振起シテ、之ヲ国民精神ノ総動員ヲ実施スル所以モ亦比ニ存ス」としてその趣旨を示し、運動の目的を「挙国一致」「尽忠報国」の精神を鞏固にし国民生活の全体を戦争遂行のための協力体制を徹底化させるものであった。具体的な実践としては、日常実践としての生活の刷新・享楽の節制・軍人家族への慰問・金品の献納・国債その利用などが示された。この運動の企画の大もととして、内閣情報委員会ならびに内務省・文部省がこれにあたったが実際の推進機関は「国民精神総動員中央連盟」という官民合同の外郭団体があたり、さらに都道府県には地方長官を中心とした官民合同の地方実行委員会が設けられ、市町村ならびに町内会・部落会にまで運動が拡大されるなど万全の策が講ぜられた(資料294・295)。政府は戦争の拡大にともなうインフレの昂進を防止するため、昭和十三年七月九日「物品販売取締規約」を公布し、公定価格制度を設けたが、同十八日には「暴利取締令」の改正法令を公布し、公定価格の強制的表示を強要した。さらに翌十四年九月十八日現在の諸物価を最高価格とし一般商品の価格をはじめ運送賃や加工賃等もこの基準内におくことをきめた(資料296)。しかし、経済活動のすべてが軍需中心にむけられたため一般の生活物資の供給は著しく不足した。そこで供給の適正化と消費の節月地下足袋にはじまり、翌十五年六月にはマッチ、砂糖、さらにその後の酒・煙草・調味料・木炭など生活のあらゆる品目におよんだ(資料297・298・299)。戦争の本格化により軍需産業は拡大に拡大をつづけ大量の労働者を必要とするようになった。しかし、中国大陸や太平洋へ戦線が拡大することにより予後備兵の召集は、技術者であろうと熟練工であろうとおかまいなしに行われ、この不足を補うため国家総動員法に基づく統制のうちで労働カ統制の部分が適用された。同十四年七月には国民徴用令が出され、登録された労働者が軍需工場へ徴用されることになった。
昭和初期の恐慌からの脱出は匡救事業や経済更生運動と共に、軍部主導、軍拡と対外侵略という形態でも図られた。その端的な例が昭和七年の満州国の建設である。拓務省は昭和七年から「満州農業移民」・を組織し、恐慌下の過剰人口を送り出す計画を実行に移した。県においては昭和十二年から開拓団の入植が開始され特に分村移民として中川村開拓団が知られる。
明治二十七年勅令で消防組規則が発布され、以来四十五年間にわたって消防組は消防・水防に中心的役割を果たしてきた。しかし昭和十四年四月戦時体制強化の一環として、その組織は防護団と合流して警防団と改められ、戦時下の国家総力戦において防空の業務も負った。また昭和十三年満州開拓青少年義勇軍の募集が開始され、十五歳以上十九歳未満の少年が対象とされた。埼玉県では合計一五六九名が送られた。『曠野の夕陽ー埼玉県満蒙開拓青少年義勇軍の悲劇』(資料300)には、本県に関する資料や情報がのせられている。

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