北本市史 資料編 現代
第3章 工場の誘致と工業発展
第1節 工場誘致と工場適地
昭和二十五年(一九五〇)六月に突発した朝鮮戦争は、約三か年の長きに渉り、盟友諸国を巻き込んで行われた。この間、戦場に近い我が国の企業には、米軍から軍需関係の特別注文が殺到し、いわゆる朝鮮戦争ブームを迎えることになる。時ならぬブームに沸いた日本の産業界は、昭和二十八年七月の戦争終結時には、第二次大戦中の最高水準までに生産力を回復するという異常な速さの立直りをみせた。一方、ドッジラインに基づくシャウプ税制改革案に従って設定された「固定資産税」の税源を、企業に求めた地方自治体によって、企業誘致が活発に展開されていった。企業誘致活動は埼玉県工場誘致条例を拠りどころとした県当局の工場適地調査と、そこへの企業の立地誘導を柱にして推進された(資料96・97)
もちろん、こうした県当局の誘致態勢に呼応して、財源に苦しむ市町村もそれぞれ工場誘致条例をつくり、積極的に企業誘致に取り組んだ。北本の場合も例外ではなかった。すなわち、高崎線や十七号国道の沿線に立地し、平地林の多い北本では五か所(後に変更されて四か所となる)の工場適地を選定し、かつ、工場誘致条例を設けて企業の誘致に努めた(資料98・99)。恵まれた立地条件と行政努力の甲斐があって、昭和三十六年十一月までに十四企業の進出をみた(資料100)。
誘致関係当局は、工場誘致の初期段階では、進出希望工場の業種や進出の仕方に格別の注文をつけることはなかったが、昭和四十年代に入ると、資料102から推定できるように、特に県当局の誘致姿勢は慎重となり、適地調査や立地誘導等も都市計画、艘業施策とからめながら、きめ細かく推進されるようになった。なお、資料103は、昭和四十年代に入ってからの北本の工場適地の実態を示す調査結果である。昭和三十年代当初の選定適地に比較すると、前者が遊休工場跡地や平地林を組み込んでいるのに対し、後者四十年代の選定適地は、すべて農地を対象にしている。このことから、高度経済成長期を含む約ー〇年間の土地利用状況に関する、著しい変貌を知ることができる。